映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「百万円と苦虫女」感想:サナギの中に籠るとき

こんにちは。じゅぺです。

今回は「百万円と苦虫女」について。

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主演は蒼井優。正直、僕はあまり蒼井優が好きではなかったのですが、本作でその認識を改めました。少女らしいあどけなさの残る丸いほっぺと、トゲトゲしさの見え隠れする話し方。これ以上ないぐらい鈴子にハマっています。ふだんはぼそぼそ喋っていて遠慮しがちだけど、ぷっつん切れるといきなり男の家財道具をぜんぶ捨てる思い切りの良さがあったたり、手先だけは人一倍器用だったりと、一筋縄ではいかない彼女のデコボコした輪郭を、抑制を効かせつつもコミカルに表現している。その演技力の高さに感嘆しました。ちょっとこれからは真面目にフォローしていかなくてはと思っています。

ストーリーの話もしましょう。ふだんおとなしいけど拾ってきた猫を同居人に捨てられてしまったことでぷっつん切れてしまった鈴子。仕返ししてやろうと男の部屋のものを全部捨ててしまったところ、警察に被害届を出してしまい、鈴子はみごと前科者に。そして「だれも私のことを知らない場所に行きたい」と逃げるように家を飛び出し、バイトをしては100万円まで貯めてまた次の場所に引っ越すという遊牧民のような生活を始めることになります。海の家、山奥の桃農家、地方都市と、さまざまな場所を転々とするのですが、どのエピソードもたいへん面白い。彼女はいつも本心を打ち明けず、愛想笑いでなんでもごまかしてしまう。ほんとうの自分を見せたらきっと引かれてしまうだろうから、なるべくその土地の人とは深い関わりを持たず、「だれも私を知らない」ままの状態で過ごしていたいと思っているのでしょう。壁を作って他者を遮断したくなるぐらい、彼女にとってこの世界は生きづらいんですよね。一方、鈴子のまわりの人間は、物静かで本音を語らない鈴子を気にかけ、彼女を理解しようとします。鈴子ってほんとうはとてもしあわせな環境に身を置いているんじゃないかと思います。彼女がいくら他人を遠ざけようとしても、まわりの人間はなんども諦めずに耳を傾けようとします。みんな大人だからしつこく声をかけたりはしないけど、遠くからいつも気にかけているのです。すくなくとも、彼女のその小さな声を聞こうとしている。どんなに嫌がっても他者の強烈な引力にひっぱられて、彼女は徐々にじぶんの人生について考え直し始めます。まったくの他人だからこそ、偏見もなく接することだってできるんですよね。ここがこの映画の優しさであり、信頼できるところだと思います。

そんな鈴子と面白い対比になっているのが、ふたりの男です。ひとりは鈴子の弟。もうひとりは鈴子の彼氏。鈴子の弟は学校でクラスメートにいじめられているのですが、姉の鈴子が気に入らない連中に豆腐を投げつけて暴れまわる姿を見て、非常に勇気づけられます。「僕の姉は嫌なことから逃げずに戦っている」と。じつはここには勘違いがあって、このあと鈴子はさっさと実家を捨てて旅に出てしまう=前科を知るご近所さんたちから逃げてしまうのですが、弟の目には戦う姉の残像がつよく目に焼き付いています。だから、彼はどんなに学校が嫌でも通い続けるのです。姉のようになりたいから。面白いですよね。逃げる姉と、逃げない弟。どっちも自分で選んだ道です。だからどっちが間違っているとか、正義だとか、そういう話ではない。彼らは自分なりの方法で自分に向き合い、自分なりの正解を導き出そうとしているのです。

一方、「自分なりの方法」を貫けなかったのが、鈴子の彼氏です。彼は「だれも自分を知らない土地で暮らしたい」という鈴子のルールに乗っかってしまう。そして鈴子に浮気をしていると誤解されてしまうのです。鈴子が嘘をつくのをやめて、自分で自分を呪縛するルールから解放されて人生の次のスタートに立ったのに対し、鈴子の彼氏は、鈴子を呪縛するルールを守り、そのために嘘をつき、幸せを逃してしまう。明らかにここには対立構造があります。鈴子は、過去から解放されることで自分を手に入れるのです。過去にこだわりがないから、付き合った男も置き去りにします。「気のせいか。」この思い切りの良さが、非常に清々しい。これから彼女はもうヘラヘラ愛想笑いして本音を隠したりはしないのでしょう。本当の自分をさらけ出して幸せを手に入れた大切な思い出があるから。さわやかで気持ちのいい傑作青春映画です。

「ペンギン・ハイウェイ」感想:ペンギンと世界の果てとお姉さんのおっぱい

こんにちは。じゅぺです。

今回は話題作「ペンギン・ハイウェイ」について。

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ペンギン・ハイウェイ」は森見登美彦原作のSFアニメーション映画。彼原作の「夜は短し歩けよ乙女」は彼の世界観と湯浅イズムが化学反応を起こした大傑作でしたが、「ペンギン・ハイウェイ」もすばらしい作品でした。

主人公は、科学少年のアオヤマくん。町に突然現れたペンギンの群れの謎をはじめた彼は「親しくお付き合いしている」歯科医院のお姉さんとペンギンの奇妙な関係を発見します。さらに彼は同じクラスのハマモトさんとウチダくんの3人で森の中に浮かぶ〈海〉を発見し、やがて「世界の果て」の存在に気づいていくのです…。

ストーリーとしては正統派の青春ジュブナイルもの。アオヤマくんが追う「世界の果て」とお姉さんの身体への「興味」のふたつの謎が密接に関わり、最終的に世界の運命とアオヤマくんの性の目覚めが連動しているところにこの映画の面白さがあると思います。

アオヤマくんは映画の冒頭で(ざっくりと)こんなことを言っていました。「僕は日々勉強し、昨日よりも賢くなっている。」と。好奇心旺盛な彼は、眼に映るすべての謎に疑問を抱き、その原理を解明しようとします。だから町に突如ペンギンが現れると、すぐに研究モードのスイッチが入ってしまうんですね。しかも彼なりに知識を総動員して、論理的に答えを導こうとしている。彼の探求欲はとどまるところを知りません。

その一環として、彼はお姉さんのおっぱいの謎にぶち当たります。いつもなぜかお姉さんのおっぱいに目が向いてしまう。どうやら、お母さんのそれとは違うらしい。「どうして僕はお姉さんのおっぱいに興味があるのだろう。」と考えています。さらに、彼はお姉さんのお家に遊びに行き、うたた寝をする彼女の顔を見て「DNAの組み合わせによって作られた完璧なバランス」に驚きます。彼はひたすらお姉さんの身体の造形の美しさに感動しているのです。お分かりの通り、彼のこの好奇心は、ありていに言えば、大人への第一歩、性の目覚めなのでしょう。彼は今、お母さんのおっぱいに吸い付いていた記憶もまだ新しい「幼少期」から、お母さん以外の女性の身体に興味を抱く「男の子」に変わる、その中間地点に立っているのです。つまりアオヤマくんがお姉さんに抱く好奇心は、恋心の一種なのですが、彼はまだその輪郭をはっきりと掴めていません。その感情の位置を知らないのです。

自分の感情に整理がついていない子がもう一人います。ハマモトさんです。彼女は、自分とチェスや科学の知識で互角に渡り合えるアオヤマくんに興味を持っていました。だから〈海〉の研究プロジェクトにも誘いました。信頼できる相手だと思って秘密を共有したのです。なのに、彼女の思いはあっさり裏切られ、〈海〉の存在はお姉さんに知られてしまいます。当然、ハマモトさんは怒り、失望しますよね。「共同研究者」としての信頼を裏切られたのですから。しかし、そこにはきっとほかの感情も混ざっていたのだと思います。それは、アオヤマくんの方がお姉さんとの仲を打ち明けてくれなかったこと。向こうにも秘密があったこと。そして、自分以外の女性と親しくしていたこと。ここに嫉妬の感情、その裏返しとしての恋心があったのでしょう。大人っぽいけど、やはりそこは小学4年生なのだなと思います。

話を戻します。そんなアオヤマくんがお姉さんに抱く「不思議だな」という気持ちは、なんと彼が追い続けてきたペンギンの群れと〈海〉の謎の真相と不可分な関係にありました。〈海〉とお姉さんは同じ「世界のねじれ」から生まれた存在で、お姉さんこそが「世界の果て」の謎の答えだったのです。アオヤマくんはそのことに薄々気付きつつも、お姉さんを失う覚悟を決められず、答えにたどり着くことができません。正解にたどり着くことを誰よりも求めていたアオヤマくんが、無意識のうちにこの難問を解き終えることを拒もうとしている。しかし、〈海〉の暴走によって世界に危機が訪れていること、そしてお父さんの行方が分からなくなって動揺するハマモトさんを見て、前に進む決意を固めます。そしてお姉さんと二人でペンギンに乗って〈海〉に挑みます。ここの場面の爽快感と解放感は素晴らしかったですね。ただ楽しいだけではなく、夢の中のようなカオスな世界観が、お姉さんとの別れの予感によって、どことなく「あの世」を感じさせる空虚さと寂しさを漂わせています。「ペンギン・ハイウェイ」でもいちばんの名場面でした。

アオヤマくんの活躍によって〈海〉が消滅したのち、お姉さんはあっさりと、まるで風に吹かれて舞う葉っぱのように、この世界から去っていきます。一夏の思い出と共に、お姉さんの肉体は「向こうの世界」に行ってしまったのです。アオヤマくんは恋を知り、「世界の果て」の真理に到達します。あの〈海〉がなんだったのか、お姉さんが何者だったのかは、アオヤマくんだけが知っているのです。壮大な世界の深淵に触れたアオヤマくんですが、それでも彼は「僕は日々勉強し、昨日より賢くなっている」と回想します。子どもらしく傲慢に響いたこの言葉が、大冒険を通して180度違った意味に聞こえてきますね。彼は再びお姉さんに会える日が来ることを信じて、「もっと賢く」なることを誓います。恋を知り、別れの痛みを味わって一皮むけたアオヤマくんは、きっとウチダくんと一緒に今日もまた冒険に繰り出すのでしょう。清涼感たっぷりの後味残る大傑作でした。

「青春群像」感想:漫然と毎日を過ごす人たちへ

こんにちは。じゅぺです。

今回は「青春群像」について。

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「青春群像」はフェリーニ出世作になった青春映画です。地元で職もなくブラブラする5人の若者の日常を描きます。

僕はこの映画を特にやることもない日曜の昼下がりに寝転びながら見ていたわけですが、そのせいか非常に心に刺さってしまいました。とてつもない破壊力です。それはなぜか。やはり、5人の毎日を通して自分の人生について考えさせられてしまうからでしょう。

お気に入りのバーで酒を飲んだりビリヤードで遊んだりしては人生を浪費する5人の男。特別にやりたいことがあるわけでもないけど、平凡な毎日に悶々とした不安を抱えている。自由であるからこそその解放感が心地よく楽しい。その一方で、やることもなく過ごすのは退屈。贅沢でもあり、虚しくもある悩み。おそらく、彼らは「何のために生きているのか」という壁にぶち当たっているはずです。とりあえず明日飢えないように働いたして、その先に何があるのか。誰もがどこかでぶち当たる問題なのではないかと思います。

一見楽しそうだけど、こんな毎日続くわけないんですよね。いつか子どもから大人になって自分の人生に責任を持たなければならない日がやってくる。それが確実に迫っているものだとして、じゃあ自分は今すぐ動けるのか。漫然と日々を過ごしてしまうのではないか。そんなことを考えながら見ていると、たいへん味わい深い映画でした。また今度見返そうかなあ。とにかく傑作です。

「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」感想:はじける笑顔!青い海!

こんにちは。じゅぺです。

今回は「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」について。

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みなさんご存じの通りABBAの名曲で構成したミュージカル「マンマ・ミーア!」映画化の続編です。ドナの遺志を継いだソフィの現在と、過去のドナがカロカイリ島に住むことを決意するまでを同時進行で描きます。

主演はリリー・ジェームズ。若き頃のドナを演じています。「シンデレラ」や「ベイビー・ドライバー」ではおしとやかで上品なイメージの彼女ですが、今回は全く違う顔を見せてくれていますね。とっても笑顔がすてきです。はじけるような小麦色の肌と、どこまでも青い地中海の組み合わせに、ドナの青春の全てが詰まっているのではないかと思います。映画の冒頭で、現在すでにドナは亡くなっていることが示されているので、この過去パートが楽しくもあり、儚くもあります。恋に悩み、明るい将来を夢見たドナの一つひとつの感情を知る人はもう誰もいないのです。しかし、ドナが一生懸命に生きていたことは事実だし、直感で人生を切り開いたドナのエネルギーは、彼女が亡くなった後もみんなの心に残り続けるでしょう。

ラ・ラ・ランド」がワンカット長回しによる舞台的な緊張感にチャレンジしていたのに対し、「ヒア・ウィー・ゴー」は徹底してPV的でした。これは前作と同じですね。細かくカットを繋いでテンポよく見せていくスタイル。特に時空間の移動がシームレスになっています。現代と過去、ニューヨークとギリシャを鏡や壁を介して繋ぐ。とても映画的です。また、並ぶ自転車の車輪やダンスする足元をアップにして写したり、シンメトリーな構成を意識していたり、ダンスシーンの切り取り方はみていて面白いなと思いました。

あと注目すべきはそれぞれの俳優のパフォーマンスでしょう。パワフルでエネルギッシュな演出の中にも俳優ごとに違いが出ていて面白いのです。アマンダ・サイフリッドは柔らかい声で可憐に、リリー・ジェームズはとびきりの笑顔で楽しく、クリスティーン・バランスキージュリー・ウォルターズは大人の余裕を感じる優雅さで。お父さん3人もだいぶ肩の力の抜けた演技。なかなか見られないものだと思います。

ことしはミュージカル映画が続いていますね。「グレイテスト・ショーマン」や本作、そして「SUNNY 強い気持ち・強い愛」など。映画館ならではの楽しみを追求した作品がこんごも増えていくことでしょう。来年の「メリー・ポピンズ リターンズ」も楽しみです。

「手紙は憶えている」感想:ひとの記憶の「あいまいさ」

こんにちは。じゅぺです。

今回は「手紙は憶えている」です。

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かつてアウシュビッツに収容され、ナチスに家族を皆殺しにされた老人が、友人から渡された手紙を頼りに「復讐」の旅に出るというお話です。主演は名優クリストファー・プラマー。老人のひとり旅ということで、わりとコンパクトな映画ではあるのですが、がつんと重みのある秀作になっています。

この映画の肝となるのは、ひとの記憶のあいまいさでしょうか。主人公は老人ホームで残りの人生を静かに過ごす身であり、最近は記憶力の低下に悩まされています。もう残された時間は長くありません。だから、老人ホームで出会ったもう一人の「アウシュビッツ経験者」の導きで、復讐の旅に打って出る決意を固めたわけです。しかし、映画の冒頭、本人はその肝心の決断を覚えていないんですよね。人に言われて初めて気付くんです。もはや短期の記憶は一度寝てしまうと失われてしまう程度には脳の機能が低下している。だから手紙を頼りにしなければならないのです。

オチから言ってしまうと、けっきょく、ユダヤ人の家族を皆殺しにしたのは、かつてナチの党員だった主人公本人でした。彼はこれまで怒りを向けていた対象が自分自身であると知り、友人のあまりに残酷な仕返しと、己の犯した罪の深さに絶望をしながら自死の道を選びます。僕は、ナチスに対する怒りに突き動かされて老体に鞭打ち旅を続ける主人公になんの疑問も抱かなかったのですが、結末を知ると、たしかに「なぜだ?」となりました。だって本人はその記憶がたしかではないのですから。家族を殺されたトラウマはすべて「手紙」しか知らないのです。でも、彼はいたって真面目に、ナチスの残党を殺すことが自分の使命だと思って戦っている。よくよく考えれば、そしてここがこの映画の上手いところですが、戦時中の回想シーンは一切ないんですよね。スクリーンに切り取られるのはせいぜいこの数日の出来事、すなわち「いま」でしかありません。見事なミスリードでした。

ひとの記憶のあいまいさ、そしてその恐ろしさがこの映画でいちばん面白いところでしょう。だって戦争のトラウマですら、後から上書きされてしまうのですから。ひとがいかに世界を都合のいいように解釈する生き物ものなのかというのがわかってしまいます。後味は悪いですが、引き込まれる映画でした。

「ナイスガイズ!」感想:謎のテキトーさと余裕が呼び込むマジック

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ナイスガイズ!」について。

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「ナイスガイズ!」は、ゆるーい探偵たちが巻き起こすドタバタ劇です。主演はライアン・ゴズリングラッセル・クロウ。特にライアン・ゴズリングが光ってました。「ラブ・アゲイン」でもクールな役柄でコメディセンスを発揮していましたが、今回は高田純次的なテキトーさと、隠しきれないセクシーさが最高でした。こういう演技もできるんですねえ。彼の醸し出す謎の余裕オーラとそれがことごとく打ち砕かれて酷い目にあっていく様が最高に面白くて笑ってしまいました。

70年代が舞台とあって「陰謀」が物語のキーになっています。コーエン兄弟の「ビッグ・リボウスキ」や「バートン・フィンク」、ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレント・ヴァイス」を思い出しました。小さな事件だったはずが真相を追っているうちにどんどん手に負えない大きさになっていく。もはや自分があがいたところで何かが変わるわけではない。世界をどうしたいとか、正義をなしたいとかではなく、大切にしているものを守るために、戦う。そこにひとりの人間としての意地やプライドを感じるわけです。守るべきラインは守る主人公たちが素敵ですね。娘役がアンゴーリー・ライスちゃんでめちゃくちゃ可愛いから、たしかに守りたくなるなと納得もします。

全体的にコンパクトで見やすい作品でした。時間も長くないし、かるく楽しみたい気分のときにぴったりですね。

 

「ハッピーアワー」感想:神戸の海が暗示する4人の未来

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ハッピーアワー」について。

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「ハッピーアワー」はかなりチャレンジングな作品です。まずその尺の長さ。5時間17分というボリュームです。Blu-rayでもディスク2枚構成ですから、相当の長さです。さらに本作は濱口竜介監督によるワークショップの一環として制作されました。つまり、出演者はほぼ全員演技未経験の素人です。映画の出演どころか芝居すらしたことのない素人だけで5時間17分の映画を撮ろうというのですから、ほとんど無謀な挑戦に思えてきます。しかし、これが大傑作なのです。箔を付けようというわけではありませんが、スイスのロカルノ映画祭でも大絶賛を浴び、主演の4人は最優秀主演女優賞を受賞しました。今回はその素晴らしさについて考えてみようと思います。

 

「ハッピーアワー」の主人公は人生の岐路に立つ37歳の4人の女性。それぞれ問題を抱えているのに、だれもそれに触れようとしない。見た目はそれなりに綺麗なのです。専業主婦として堅実に子育てに励む桜子、看護師の仕事に精を出すあかり、学芸員としてアーティスティックな毎日を過ごす茉美、そして私生活を語らない純(このぼっかりと空いた違和感が後半に効いてくる。憎い構成です)。彼女たちは仲のいい友達どうし。みんなもう37歳ですから、それなりにデコボコな道を歩いてきたことでしょう。すべてが思い描いた通りに進んできたわけではない。愚痴だってたくさんあります。それでも、こうやって神戸の丘の上で気のおけない友人たちと楽しい時を過ごしている。神戸のそれなりに良い住宅街に住み、しっかり生きている。「ハッピーアワー」というタイトルの通り、完ぺきではないにせよ、彼女たちはそれなりに「ハッピー」な人生を送っているように見えます。

しかし、最初はそれなりのバランスを保っているように見えたものが、なにか大きな事件が起きるわけでもなく、静かに不協和音を奏ではじめます。その予兆は、4人が参加するワークショップから始まっています(もっと言うと冒頭の雨かもしれませんが。ちなみにあの天候は完全にアクシデントだそうです)。他人の背中を借り、みんなで重心を探らないと立ち上がることもできないという経験。一人でも違う動きをするとみんなで作った円は崩れてしまうのです。このワークショップのシーンが意味ありげに30分近く展開されます。びっくりするぐらい丁寧(かつのんびりとした)な語り口ですが、ここでじっくりと4人の身体的な経験、交錯と離反を描くことが、そのあとの4時間にこれ以上ないぐらい作用してくるのです。

4人の関係は、楽しかったはずのワークショップの打ち上げで純と桜子の「ウソ」がバレてしまったことからほころびを見せはじめます。そして、ここで蒔かれたタネ、暗示された未来はすべて終盤に回収されるという仕組みになっています。あかりと鵜飼の接近、桜子の不倫、茉美の疎外感、そして、純の「ウソ」から始まる4人の人生の後戻りできない変化。見ている間はあまり意識しないのですが、振り返ってみると、すべてがここから始まっています。ちょうどあの重心を探すワークショップのように、一人の「ウソ」によって、ほかの3人に言えなかった純の苦しみによって、4人の関係はバランスを逸し、溜め込んでいた矛盾が一気に噴火してしまうのです。4人で一緒に行動することでフタをしてきたそれぞれの問題が、ここで一気に顔を現し、彼女たちの人生になだれ込んでくるのです。

打ち上げの気まずさを若干残し、くすぶりを抱えたまま、4人は予定通り温泉旅行に向かいます。ここの多幸感と不穏さが同居する雰囲気が最高です。親友どうしの微笑ましいやりとりなのに、もはや冒頭のピクニックとは決定的に違って見える。なぜなら、一度感じてしまった不信感は、真っ白なシャツにこぼしたコーヒーのシミみたいに、いつまでも目障りなまま残ってしまうからです。もうあの「ウソ」がバレてしまった時点で、元には戻ることができない。純は温泉旅行を途中で抜け出したまま、「パーマネント・バケーション」の主人公の少年のように、船でそのまま神戸を旅立ってしまいます。

後半は淡々としたペースを維持しつつも、怒涛の展開で見るものを引き込みます。まずは、こずえの新作音読会と、その打ち上げから始まる第二の崩壊。ここは前半のワークショップの打ち上げの反復であり、対比です。前半は純の「ウソ」から4人の関係にヒビが入り、崩壊が始まりますが、今回は茉美の夫の拓也の「ウソ」によって、辛うじて繋がっていた4人の結びつきは完全にほぐれ、バラバラの方向に歩みだしていきます。ワークショップの打ち上げが「ウソ」を起点とした崩壊なのだとしたら、音読会の打ち上げは「ウソ」から始まる新しいスタートなのです。

桜子は閉塞感ある日常から逃避し、夫に仕返しするために不倫をし、茉美は変わらない夫に失望して離婚を切り出し、あかりは混沌の中で鵜飼と交わる。そして、純はだれも知らない場所に隠れている。もう、あの頃のようは「ハッピーアワー」は戻ってこないかもしれません。それでもあかりは言います。「また4人で旅行に行きたい」と。そう願うあかりの視界の先には、どこまでも神戸の海が続いているのです。

僕はこの映画が閉じ込めている、単純で複雑な人間たちの交わりがとってもリアルで大好きです。4人の関係は、一見ふつうの友だち同士に見えて、たくさんの矛盾に満ちた関係になっていました。大切な友だちだからこそ、隠したいこと。なんでも言える仲だからこそ、矛盾しているようだけど、どうしても言えないこと。言いたい気持ちはあっても、向こうが察してくれない、聞こうとしてくれないから、なかなか言い出せないもどかしさ。決して相手をないがしろにしているわけではない。できればいつまでも良好な関係を築きたい。それでも不思議と壊れてしまったり、気づかないうちに解消してしまう関係って、わりとあることではないかと思います。言う必要ないと思ってたから言わなかったのに、いざそのことが相手に伝わると怒られてしまったり。特に男性は恋人や妻に対して「いまのままで大丈夫だろう」とのんきに構えていたら、ある日いきなり「どうして変わってくれないの。我慢の限界。」と突き放されてしまう。本当は「いきなり」なんかではなく、小さな失望の蓄積の末の爆発なのですが、不幸にもすれ違ってしまうのです。深刻さの大小はあるにせよ、だれもがこういうミスコミュニケーションによる手痛い経験をしたことがあるのではないでしょうか。言わなくても伝わることもあれば、言わなきゃ良かったって思うこともあり、かと思えば、自分ではおおごとのつもりなのに、言ったところで何も変わらなかったなんてこともある。人と交わることの苦しさと、難しさと、面白さが、この「ハッピーアワー」には詰まっているのだと思います。

話の筋だけ追えば、順風満帆に見えたアラサー女性たちの人生の崩壊を描く悲惨な映画ですが、不思議と開放感や清々しさを感じる締めになっています。Blu-ray付録のリーフレットにある柴崎友香の評を読んでなるほどと思ったのですが、これには神戸という土地柄が関係していると思います。この街は海に面していて、千年以上前から港町として栄えてきた場所です。高いところに行けばかならず海が見え、潮風を肌に感じることができるのです。冒頭、4人はピクニックで山を登ります。どしゃ降りで海は見えません。あかりは「これからの私たちの人生みたいだね」と予言めいた一言を吐きました。そこから先、彼女たちの人生は、たしかにある意味「下り坂」です。それでも、この神戸にいる限り、山を登ればふたたび海が見えます。その先の向こうには、きっと純がしあわせな第二の人生を求めて頑張っているのでしょう。どれだけ苦しくて、先の景色が見えなかったとしても、いつか雨は晴れ、まっさらな青空のもとに神戸の海は輝くのです。僕には神戸の地形そのものが、これまでの人生よりも長い時間を過ごすであろう彼女たちの決して「平坦」ではないが明るい将来と友情の復活への希望を暗示しているように見えました。「ハッピーアワー」は、人間関係の矛盾の生々しさというものを、素人のパフォーマーによる時に危なっかしい演技と、つねに静けさと居心地悪さを残した美しいスケッチによって、じつにみずみずしく切り取っています。ドラマチックであると同時に、ドキュメンタリーめいてもいる。淡々としていながらスリリングで、じつに豊かな5時間17分になっているのです。本当にあっという間でした。今期ベスト級の大傑作です。