映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「たまこラブストーリー」感想:アニメーションの限界を突破する「脚」の表情

こんにちは。じゅぺです。

今回は「たまこラブストーリー」について。

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たまこラブストーリー」は山田尚子監督による長編アニメーション映画です。ふたりの幼なじみが、互いに惹かれあいながらも、あと一歩を踏み出せずに逡巡する様をみずみずしく描きます。

アニメーションに関してはあまり知識のない僕ですが、今回は自分なりに考える山田尚子監督の素晴らしさを中心に「たまこラブストーリー」の感想をまとめてみようと思います。ご意見のある方はコメントいただけると嬉しいです。

ところで、僕は山田尚子監督の「小さな変化」の描き方が好きです。アニメーションって動きの自由度は高いので、スペクタクルな映像やファンタスティックなお話は実写以上に豊かな演出ができるのですが、人間の表情の細やかな変化や感情の描出には一定の制限があるんですよね。実写にしろ、アニメーションにしろ、映画である以上、見た目にはわからない人間の心は、映像で表現しなければなりません。言葉で説明した瞬間、それは映像で表現する面白さを死なせてしまいます。だからアニメーションはデフォルメや記号的なパターン化の技術を進化させ、「ならでは」の文法による面白さを磨いてきたわけです。しかし、それでもやはり1ミリ単位で変化する人と人の関係性、魂の動きは、アニメーションの技法では捉えきれないところがあります。主に日本のアニメーションは二次元ですので、顔の筋肉の動きとか、眼球の揺らぎとか、表情の部分に制約があるのは事実だと思います。

山田尚子監督は、身体の部位、特に「脚」の表情を描くことでこの壁を突破しているのではないかと思います。彼女の作品では、脚は口ほどにものを言います。ことばでは本心を伝えられないけど、脚は素直なのです。たとえば人は「嬉しい」ときに「嬉しい」と直接口に出して言ったりはしません。ただ黙って微笑むだけかもしれないし、本心を隠して口では真逆のことを言ったりするかもしれません。しかし、全身を使った所作の中に、その人の本当の心の内や考えていることがにじみ出るものなのです。山田尚子監督は、おそらく人間の「思わず漏れてしまう本心」みたいなものを、喜んでいるはずなのになぜかくねくねと自信なさげに揺れる脚とか、相手の出方を探るように円を描く指とか、そういう身体の細かいパーツを切り取ることによって浮かび上がらせようとしているのではないでしょうか。心と、言葉と、体の動きと、それぞれがバラバラに動き出してしまう統一感のなさに、不安定な自我や、好きな相手に素直になれない気持ち、自分を表に出すことへの恐れなど、高校生の未熟でみずみずしい心が表現されているのです。好きな人と一緒にいるときの緊張感や恥ずかしさ、好きって言えない自己嫌悪、この関係を壊したくないと臆病になる気持ち。どれもとても鮮やかです。ああ、青春っていいなあと思わされると同時に、あまりの若々しさに、見ているこっちも恥ずかしい気持ちになってしまう。これぞ青春映画です。

また、お餅、糸電話、バトン。たまこともち蔵の結びつきとすれ違いを象徴するアイテムの数々も重要です。どれも自然にちりばめられながら、複雑に絡み合い、クライマックスの新幹線のプラットフォームで結合していきます。「リズと青い鳥」といい、本作といい、こうしたアイテムを使うことで、ともすれば退屈に陥りがちな心の微妙な変化の描写を、大変見ごたえのあるものにしています。

ただ、「たまこラブストーリー」「聲の形」「リズと青い鳥」と、どれも情緒的でありながら非常にロジカルでパズルのような印象を受けます。抽象的なんだけど、キリスト教の宗教画や静物画みたいにモチーフに必ず一貫した意味が与えられていて、読みやすい一方、固い印象も受けるのです。3本とも吉田玲子作品ですが、湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた」や高坂希太郎監督「若おかみは小学生!」では感じないものだっったので、おそらく山田尚子監督の味ですよね。こうやって餌をばらまかれると読み取りたくなってしまうタイプなので、自分の見方のせいもあるのですが、もうすこし肩の力を抜いて、気合い入れなくても見られるタイプの山田作品も、見てみたいなあと思わなくはありません。

「ファニーとアレクサンデル」感想:家族の崩壊と再生に触れる濃密な5時間

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ファニーとアレクサンデル」について。

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「ファニーとアレクサンデル」は、イングマール・ベルイマン監督の作品です。ベルイマンの作品は「夏の遊び」と「野いちご」を見ました。どちらも素晴らしい作品でした。当ブログでも感想を書いていますので、よろしければご覧になってください。

「ファニーとアレクサンデル」はエクダール家の崩壊と再生を描く5時間超の大作です。5時間超の作品ながら飽きませんでした。その理由は3つあります。ひとつは、ジャンル横断的であること。もうひとつは、緻密に計算された映像美。そして最後に、先を読ませないストーリー展開です。それぞれについて触れていきましょう。

まず、ジャンル横断的であることについて。本作はエクダール家のファミリーヒストリーであることは大前提として、より大きな歴史的フレームで捉える叙事詩の一面があったり、密室監禁劇のゴシックホラーの一面があったり、さまざまな顔を持つ作品になっています。各チャプターごとに異なる面白さがあり、非常に見ごたえがあります。

そして、計算された映像美について。クリスマスパーティーのカラフルで豪華な装飾とヴェルゲルス家の白一色で殺風景な内装の対比、雪や雨、川の流れに象徴される一家や劇場の興隆など、ファニーとアレクサンデルの置かれている状況が、次々に起こる事件やシチュエーションだけでなく、画面全体の色調、テンポ、背景に見える自然や置物、服装、など映像のすべてに反映されています。僕が好きなのは、冒頭のお屋敷の内装を映す場面ですね。これが映画であることを忘れ、まるで本当にアレクサンデルとお屋敷の中を冒険しているかのような感覚に陥りました。まさしく映像に「浸る」体験です。

また、先を読ませないストーリー展開について。映画は一家のクリスマスパーティーから始まります。下僕、孫、祖母、それぞれが自分の「役」に徹しなければならない。それを受け入れる者もいれば、うんざりしている者もいる。エクダール家が演劇一家であることを考えると、大変面白い場面ですが、ここですでに崩壊の予兆があります。このあと起こるすべてのことの伏線が冒頭でばらまかれているんですよね。さらに重要なのは、ファニーとアレクサンデルの母が再婚し、司祭の家族になるチャプター。「現実と幻想」を巡るアレクサンデルとエドヴァルドの会話から、時代の大きなうねりの中で変質していくエクダール家と失われていく信仰心という本作のテーマが本格的に浮かび上がってきます時に幽霊も登場する。二人が対峙する場面がスリリングで最高でした。エドヴァルドは聖職者らしく荘厳で優しいオーラを出しているけど、やはりその裏には狂気と欲望が渦巻いています。それが言葉や目線の動き、表情の変化ににじみ出ていて、とても恐ろしかった。まさか密室監禁劇の方向に話が転がっていくとは思わず、驚きました。

ラストは、晴れ晴れしく希望を感じさせるものでした。これからどんな試練が訪れようとも、エクダール家のバトンは次の世代へ渡されていくことでしょう。アレクサンデルは今晩どんな夢を見るのだろうかという余韻を残しながら、この映画は幕を閉じます。また見返したいと思える作品でした。

 

 

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」感想:声を上げればなにかと叩かれがちなこのご時世に

こんにちは。じゅぺです。

今回は「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」について。

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「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」は、三木聡監督による音楽コメディです。主演は阿部サダヲ吉岡里帆。作品のテイストや俳優陣を見て勝手に宮藤官九郎映画だと勘違いしていました(そもそもクドカンのことはよく知りませんが…)。おそらく吉岡里帆は映画初主演だと思うのですが…残念ながら興行的にも批評的にも厳しい結果になってしまったようです。

本作は、パンクロック歌手・シンと声の小さいストリート歌手・ふうかの出会いと二人の成長を描くコメディ映画です。全体的に結構クセが強かったですね。特に笑いの質は好みが割れると思います。シュールでツッコミどころ満載、そして若干手作り感のあるチープな世界観が作品の空気を作り上げています。僕は園子温監督の「TOKYO TRIBE」や福田雄一監督の「50回目のファーストキス」を見たときの感覚を思い出しました。正直、演じている人が無理して暴れているような気がしてしまう。心から体を張って笑いを取りたいと思っているようには見えなかったんですよね。これはあくまで僕にはそう見えたという話なんですけど、恥じらいが透けて見えている。吉岡里帆はどこかで自分の可愛さを守っているんじゃないかと思いました。そもそも得意じゃないならあまり無理してやるようなことでもないような気もします。見てるこっちが恥ずかしくなってしまいますから。反対に阿部サダヲはいつもの阿部サダヲです。演技の作り込みに既視感を覚えましたが、彼のパフォーマンスがかろうじて作品の強度を維持していたと思います。

あと、後半の韓国のくだりがとても強引でした。「日本海を隔てた対馬と韓国」のオチを作るために用意されたシチュエーションになっています。だって東京から追手を振り切りながら韓国に逃げるとして、島根からフェリーで移動するでしょうか?その必然性の説明も一切なかったので、非常に強い違和感を覚えました(もし見落としてたらごめんなさい)。

韓国の集落のイメージも意味不明でした。北朝鮮ならまだわかりますけど、あれだけ貧しく描いてしまうのはあまりに韓国の現状からかけ離れていて、作品の世界観に入り込む上で大きなノイズになっています。花火工場という設定も、本当にそれ日本人が技術提供する領域だとは思えませんし(少なくともキャッチーではありません)。すべてにおいてクライマックスの対馬ライブに持っていくための雑な伏線に見えてしまうんですよね。タクシーのキスのシーンも響きませんでしたし。細かく詰める時間なかったんでしょうか。とにかく後半の展開はガッカリしてしまいました。ちなみにですが、ふうかの言葉づかいが「〜だわ」「〜なのよ」になっているのも、今どきの女の子の話し方としてはどうなのだろうと気になってしまいました。個人的にノイズが多かったのは残念です。

一方、作品を貫く「ロック」の柱は好きでした。声を上げればなにかと叩かれがちなこのご時世。まわりの声を気にせず、とにかく腹の底から叫びまくるシンとふうかがうらやましい。声を上げられない人の代わりにマイクを握る、この声を届けたい人のために、精いっぱい、血反吐を吐いてでも叫び続ける。声を上げたいのだったら声を上げろ。やらない理由を探すより、目の前のチャンスに必死にしがみつけよと。こういう青臭いメッセージを恥ずかしげもなく作品って絶対必要だと思うんですよね。耳が痛いな~と思ってしまいました。なんだかんだこの映画が伝えようとしていることは、見終わったあとも心の中に残っています。それだけに細かい部分が悔しいな~と思う映画でした。きらいじゃないんですけどね。

「バーバラと心の巨人」感想:なぜバーバラは「巨人」を見るのか?

こんにちは。じゅぺです。

今回は「バーバラと心の巨人」について。

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バーバラと心の巨人」は、アメリカのグラフィック・ノベル「I KILL GIANT」が原作の青春ファンタジー映画です。

本作の主人公・バーバラは、一風変わった儀式に傾倒し、周囲から心配の目で見られている少女です。ニューヨーク郊外・ロングアイランドの家で、金融機関で働く姉と反抗期の兄とともに暮らしています。この家には父も母もいません。何らかの事情で彼らは3人で暮らすことを強いられているようです。姉のカレンは素直になってくれない妹に手を焼き、ほとんど心のバランスを崩しかけています。

そんな中、バーバラはクラスメートのイジメに目もくれず、人知れず世界中の不幸を背負って「巨人」と戦っています。誰も彼女の戦いに理解を示しません。それでも、この世界に危機が迫っていることを知っているのは私だけなのだと信じて、バーバラは一心不乱に「巨人」を倒す方法を探求するのです。物語は、そんな彼女の日常にイギリスからやって来た転校生・ソフィアが入り込んでくることで転がり始めます。

この映画の最大の魅力は、まるで迷路のように現実と虚構の入り混じった童話的世界観でしょう。いい意味で「中二病」的なんですよね。世界の始まりの物語とか、巨人と戦う勇者とか、世界の命運を握る必殺武器とか、そういう幼稚で大げさな神話的モチーフが散りばめられていて、いかにも斜に構えた女の子の作り出した内省的な空間がスクリーンに広がります。文字だけで表現すると痛々しい感じがしますが、崖の上にあるバーバラの家と、そばにある深い霧に包まれた森というシチュエーションがすでにファンタスティックで、これが北欧神話的な空気を漂わせているので「もしかしたら本当に巨人がいるのかも」と思わせる舞台設定になっているのです。

なぜバーバラには「巨人」が見えているのか?そして「巨人」は本当に存在するのか?が中盤以降物語をドライブしていく謎になっていきます。あえて今回の記事では革新には触れないことにしますが、一つ言えることは、バーバラにだけ「巨人」が見えているのは彼女が人一倍傷つきやすく、繊細で、愛に溢れている子だからだということです。心が豊かだからこそ、世界中の不幸を想像し、一人で背負って戦おうとしてしまうのです。決してバーバラが変人だからでも、弱い人間なのだからでもありません。そしてバーバラを心配する人びともそのことはわかってるんですよね。転校生のソフィアも、カウンセラーのモル先生も、姉のカレンも、エキセントリックな行動に振り回されたり、乱暴な言葉に傷つけられたりするけれど、決してバーバラを見捨てず、混乱した世界から救おうと手を差し伸べるのです。彼女が美しい心をもった純粋な少女であることを信じているんですよね。僕はこのことに気づいたとき、なんて優しいお話なんだろうと思いました。最初に行ったとおり、まさしく「童話的」な映画になっています。ストーリーとビジュアルが有機的に結びつき、情感豊かで心温まる余韻を残す良作です。すばらしい映画でした。

「男はつらいよ 寅次郎夢枕」感想:寅さんの幸せってなんだろう

こんにちは。じゅぺです。

今回は「男はつらいよ 寅次郎夢枕」について。

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男はつらいよ 寅次郎夢枕」は「男はつらいよ」シリーズ第10作目です。

今回のマドンナは八千草薫です。若いですねえ。バツイチの美容師・千代という設定。ちょっぴり漂うくたびれ感が艶っぽいです。前作「柴又慕情」の吉永小百合演じるマドンナとは対照的な魅力を放っていて楽しいですね。こんなに素敵な出会いばかりしているのだから、たしかに寅さんも惚れっぽくなりますよ。

今回の恋敵は米倉斉加年。インテリで口下手な研究者・岡倉を演じています。寅さんと岡倉先生の応酬が笑えます。ふたりともちょっと幼稚で、恋には奥手。お互い千代のことが気になっているのに素直になれないのが可愛い。特に岡倉先生をからかう寅さんなんて、ほんとは自分も千代が気になって仕方ないくせに。小学生ですね、ほとんど。

けっきょく寅さんの恋が実りません。実ったらシリーズが終わってしまいます。しかし、今回は千代の方も寅さんに好感を抱いていました。なのに、これまたいつも通り、お人好しな性格が寅さん自身には災いして、恋心はすれ違ってしまうんですね。ひとの幸せを願えるのが寅さんのいいところであり、だからこそ、彼は自分の幸せを手放してしまう。この不器用さが魅力ですね。親戚にいたら厄介だけど。

「奮闘篇」もですが、寅さんに「夫失格」の烙印を押すまわりも残酷だよなあと思います。千代が寅さんへの想いを打ち明けても、誰も真面目に取り合いません。悔しいですねえ。たしかに妻になる側の将来まで思いを巡らせれば、その気持ちもわかるんですけど。柴又のみんなはとても優しく、温かく、面倒見がいいけど、寅さんのようなヤクザ者が自分だけの幸せを高める空間ではないんですよね。良くも悪くも、世話焼きだから、寅さんを彼らの考える「枠」に収めようとしてしまうんですよね。彼らなりに考える、そして自分たちの人生経験から言ってベストだろうと思われる寅さんの「幸せ」と、寅さんが寅さんなりに考える「幸せ」って、きっと違うんだろうなあと思います。かといって寅さんの中に確固たる「幸せ」像があるわけでもなさそうですけど。彼はきっと刹那に生きる人だと思います。

「ひまわり」感想:美しく輝くひまわりに込められた意味

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ひまわり」について。

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「ひまわり」は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の描く戦争で引き裂かれた夫婦の物語です。

デ・シーカ監督の作品は「自転車泥棒」と「ウンベルト・D」を見ました。どちらも貧しさや孤独にあえぎ、生きる意味さえ見失いかけたとしても、生きていかなければならないし、生活は続いていくのだという現実の厳しさを描いています。見ていて大変つらくなる一方、人間のたくましさを信頼する、たしかなヒューマニズムにも支えられている作品でした。

「ひまわり」も、第二次世界大戦という歴史の大きなうねりに翻弄され、すれ違っていく二人の男女の悲哀を描いています。

この映画はタイトルの通り、ひまわりが強烈なインパクトを残します。彼らの悲劇的な運命と、海のようにどこまでも広がる美しいひまわり畑の対比は、非常に残酷なコントラストになっています。たとえば、かつて戦場だったこの土地の下におびただしい数の死体が埋まっているという事実は、地上でまぶしく輝くひまわりによって逆説的に強調され、グロテスクな死のイメージを見る者に植えつけます。さらに、ドイツ軍と死闘を繰り広げた戦時中の場面の冬の雪原と、夏らしさを感じさせる現在のひまわり畑の対比も、季節の移り変わりを感じさせ、時間の流れは不可逆で、人間は決してそれに逆らうことはできないのだということを改めて突きつけてくるかのようです。もっと深く読み込めば、一度別々の道を歩み始めてしまった男と女の人生が再び交わることはないという、本作の結末を暗示しているようでもあります。本作でひまわりの持つ意味はかなり多層的に彫り込まれていて、かなり解釈のしがいがあるのではないでしょうか。

また、全体を通して感じるのは、男はいつまでも昔の女を追い、女はある段階できっぱりと区切りをつけ、新しい環境に馴染んでいく、それが世の常だということです。不思議なことに、どんな国や時代の映画を見ても、文学を読んでも、そして、じっさいにまわりの人々を見ても、そういうものなのだということです。3回ある駅での「別れ」の変化は、どの世界でも男と女がたどる道をなぞるかのようで、たいへん印象的でした。見る時期や気分によって感想が変わりそうな映画です。

「実録外伝 大阪電撃作戦」感想:すべてを物語る松形弘樹の「目」

こんにちは。じゅぺです。

今回は「実録外伝 大阪電撃作戦」について。

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「実録外伝 大阪電撃作戦」はじっさいに山口組が大阪で起こした抗争・明友会事件をもとに作られたヤクザ映画です。いわゆる「東映ヤクザ映画」ですね。以前から気になってはいたのですが、このたび初めて見ることになりました。非常に面白かったです。

主演は松方弘樹渡瀬恒彦。お二人とも先日亡くなってしまいましたが、こちらは1976年の作品ですので、たいへんお若いです。泥っぽく、焦げた肌に雄々しい眉。カッと見開いた白目が、目を合わせたら襲い掛かってきそうなぐらい鋭く光ります。正直、めちゃくちゃ怖いです。野生の目をしています。キャラクターの通り「野良犬」の目です。しかし、松方弘樹の方はときに優しい目をします。信じた人間は絶対に裏切らない安田の義理堅さがにじみ出ています。また、梅宮辰夫も出演してますが、彼は当時から半端じゃない貫禄ですね。そして今も当時の迫力をそのままに残しているんじゃないかと思います。

ストーリーも、小さな事件が徐々に大きくなり、やがて大規模な陰謀と抗争に発展していく展開がスリリングでした。松方弘樹演じる安田と渡瀬恒彦演じる高山は、みずからは巨大組織の駒として動きながらも、やがて自らの野望や友情のために反旗を翻し、命の危険にさらされることになります。最初は反目していた安田と高山がやがてお互いの心意気に惚れあい、命を懸けて守りあっていくようになるさまは、ヤクザ映画のむせかえるような暑苦しさにあっても美しく、青春映画のような爽やかさを感じました。そして、彼らが組に追われる切迫感がすさまじかったです。集団でリンチしたり、ドラム缶に押し込んでコンクリートを流したり、とにかくヤクザの拷問がえぐいんですよ。だから二人のことを「逃げて!」と応援したくなってしまうんですね。

俳優の演技、ストーリーと触れてきましたが、ヤクザ映画とあって強烈なシーンが多いですね。安田であれば、酒池肉林の宴会でガンギマリの目をしながら踊る場面、それから、弁慶のように目を開けて立ったまま死ぬ場面。僕、松方弘樹の目の話ばかりしてますね。高山で言えば、興奮してビールのコップをかみ砕く場面でしょうか。先ほどあげたとおり、拷問もむごくて素晴らしいですね。強烈に印象に残りました。

「実録外伝 大阪電撃作戦」、とてもいい映画でした。これから少しずつ東映ヤクザ映画も掘っていければなと思います。