映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「怪怪怪怪物!」感想

f:id:StarSpangledMan:20191003001426j:image

怪怪怪怪物!みた。傑作!いじめられっ子のリンと「怪物」との出会いから始まる地獄を描く。人は反撃されないとわかっている相手にしか手を出さない。「格下」を苛めで保たれる自尊心、守られる人間関係。誰だって「善人」でありたいと願う。でも「悪人」が業火で焼かれる様に興奮する自分もいるのだ。

圧倒的に有利な状況で、目の前の人間の生殺与奪の権利を握っていると自覚したとき、人は相手を凌辱する誘惑に勝てるだろうか。「この世界には悪人とバカしかいない」とリンは言う。弱い者苛めをしないと生き残れない社会。ただひたすら傷つけ、騙される苦しみを受け容れる人間は「バカ」なのだろうか。

焼き殺される人間を見て興奮する高校生たち。でも、彼らの醜悪さを自分は笑えるのか。あの場面、たしかになにかが体の内側でたぎるのを感じた自分がいる。ジューサーでかき混ぜられるスイカの果肉と果汁。その一方で虫けらのように叩き潰されていく人間の血と肉。そして全てを包む禍々しい地獄の業火。

「冬冬の夏休み」でも知的障害の女性が出てくるが、彼らはある意味聖者めいた存在として映画の中にいる。終わりなき因果から外れた、妬みや裏切りのない人間。でも、この世界に彼らの居場所は用意されていない。他人を蹴落としてうまく立ち回れるのが「強者」なのか。そんな腐った世界ならいっそ…。

だからあのラストはすごく苦しいけど、同時に解放的でもある。どうせ自分たちは焼かれる側の人間ですよ。でも、映画を見ているあいだは聖者の気分で、悪人が地獄に堕ちていく様を観察したいじゃないですか。作り手はそこすらも見越していて、とっても意地悪なオチを用意したなと思うけど笑

「テッド・バンディ」感想

f:id:StarSpangledMan:20191008215933j:image

テッド・バンディ、みた。試写会にて。30人以上の女性を殺害したシリアルキラーを描く。この手の実録モノにしては珍しく〈なぜ彼は殺人鬼になったか〉を描かない。パーソナリティにも踏み込まない。この映画にあるのは〈人びとはテッドの何を信じたか〉だ。故にひたすら空虚で恐ろしい余韻が残るのだ。

ザック・エフロンシリアルキラーを演じている。その隠しきれない色気やチャーミングさと、残虐な殺人鬼としての顔が全く結びつかない。このギャップに脳がバグる笑 スマートだしハンサム。テッドという男は確実に魅力的ですよ。却ってミステリアスでカッコいいかもしれない。だから怖い。

原題の「Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile=極めて邪悪、衝撃的に凶悪で卑劣(ポスターでもコピーに使われています)」は、判決文の引用なのだけど、ここに至るまでの顛末は非常にアメリカ的。裁判がTV中継されるのだ。ある意味、非常に民主的な社会だとも言えるが…。 

f:id:StarSpangledMan:20191008215930j:image

〈メディア〉というフィルターを通して〈真実〉を見る〈観客たち〉という構図。伝記映画のくせに出てくる全員語り手として信頼できないのは「アイ, トーニャ」だったけれど、この映画も肝心な部分がなかなか見えてこない。断片的な印象や情報を拾い集め、〈真実〉を再構築していくしかない。

70年代の連続殺人事件を扱っているけれど、目線はきわめて現代的で、描かれているのはいまの社会なんですよね。中身はなくても、ハンサムで自信満々な小泉進次郎にコロッといっちゃうのが多数派の世界なのだから。〈観客たち〉の醜悪さ、軽薄さを笑える人は(自分も含めて)いないのかもと思ったり。

「マジで航海してます。Second Season」感想

f:id:StarSpangledMan:20190930002553j:image

マジで航海してます。Second Season、超絶大傑作!飯豊まりえはふにゃっとした笑みも、キリッと真面目な表情も似合う。いよいよ商船大学を卒業し、航海士のお仕事ドラマとして興味深い。未熟さゆえの苦い経験もあるけど、爽やか、元気でる!真凛と燕の最後の別れは青春の終わりを感じ、切なかった。

この手の青春ドラマは好物なのでよく見るのだけど、お話の内容も演者の表現力もシーズン1から大幅にクオリティ上がっていたと思う。真凛=飯豊まりえのシリアスパート比較的多めだったのも嬉しい。そして武田玲奈とのコンビよ!相性最高です。武田玲奈はスタイルいいからスーツも制服も似合いますね。

チョッサーとの対立、からの信頼関係の構築。オチとしては分かりきっているのだけど、これがまた爽やかで気持ちいい。全6話しかないのがもったいない。もっとゆるゆると彼らの海の旅を見続けたい。そして、最後は旅愁を刺激される。もっと見たい!ぜひサードシーズンも作ってください。

「松永天馬殺人事件」感想

f:id:StarSpangledMan:20190929211621j:image

松永天馬殺人事件を「目撃」しました。松永天馬という男は、そして映画は誰によって殺されたのか?正直、仕掛け自体は予想ついていたけど…「俺は俺だけの映画を創るんだ!」という熱い想いにあふれていた。この映画に物語は存在しない。あるのは松永天馬の哲学である。冨手麻妙が主演に劣らぬ存在感。

オープニングのミュージカル風演出で一気にグッと心つかまれた。合わせ鏡の世界に招かれるように、混沌とした松永天馬ワールドに、劇場空間に閉じ込められていく。映画のための映画、映画とは何かを語るための映画。言ってしまえば松永天馬の壮大なプロモーション、マスターベーションでもあるのだが。

松永天馬殺人事件、松永天馬が「殺害」される場面で特に感じたのだけど、「東京流れ者」の影響下にあるのでは?劇映画のはずなのに「演者」のアイドル性、カメラが捉える「セット」の空間性が暴かれてしまうメタ的目線。脱構築の手法そのものが作品の主題になっている。極限の危うさの上に成り立つ。

「マジで航海してます。」感想

f:id:StarSpangledMan:20190922020505j:image

マジで航海してます。全話みた。商船大学の1ヶ月の研修を描く。飯豊まりえ目当てで見たけど、武田玲奈がよかった!他愛もないお話で、安定のダブ品質。飯豊まりえはシリアス演技の方がハマる気がする。最後その展開を10分で片付けようとするなよ!とは思ったけど。この安っぽさが落ち着く時もある。

「ジョーカー」感想

f:id:StarSpangledMan:20191005003041j:image

ジョーカー、みた。道ばたで異臭を放つゴミのように蔑まれてきた男が、混沌の震源地となり、世界を丸ごと「喜劇」に変えてしまう。果たしてこのテーマをエンタメとして扱っていいのだろうか。お金払って楽しんでいる自分は「マーレイ・フランクリン・ショー」の視聴者と何が違う?とても危険な映画だ。

最近「無敵の人」なんて言葉が流行っているけれど、この映画のジョーカーはまさしくそれである。自分には守るべきものがある、大切にしたいしあわせな時間があると信じていた人が、世界のウソに気づいてしまったら。失うものなんて何もないと開き直ってしまったら。生きる意味ってなんなの?ってなる。

とても居心地が悪くなるし、嫌な映画だと思いますよ。きっとこれで救われる人もたくさんいるだろうけど。一方で「アーサーみたいな人」がピエロとして消費されている、と捉えることもできる。「ジョーカー予備軍は現実にもいるよね」ってみんな言うだろうけど、それは「笑う側」の考えでは?と。

「モダン・タイムス」の「スマイル」が引用されているけれど、「Smile」と「Laugh」は違う。アーサーのそれは「Laugh」ですよ。ふだんは存在のないアーサーが、大声で笑った途端、空間を支配する。彼の笑いは空気をぶち壊す「異物」だ。どこまでいっても優しくない。他人を拒絶する笑い。

アーサーのキャラ造形としていいなと思ったのは、ジョーカーの誕生が「積み重ね」と「混濁」として描かれているところ。なにか劇的なできごとが人を変えるわけでない。ちょっとずつズレて、気づいたら新しい自分になってる。そして本人にはその変化がわからなかったりする。そこは好みであった。

ただ、劇伴が鬱陶しい。「ここはこういう感情になってください!」って主張が激しくて。あまりにドラマティックすぎるとうさん臭く感じてしまうもの。なにも失うものがない孤独な人間というテーマ自体、非常にセンシティブだから。化学調味料てきな。映像自体はとてもリッチでいい。見応えある。

「宮本から君へ」感想

f:id:StarSpangledMan:20190929182010j:image

宮本から君へ、みた。自分が大好きで、納得できないとわめき散らす未熟な男。そんな宮本が父になる。お腹を痛めて子を産むのは女。ならオスとして「強く」なれば、男は「父」になれるのか?男と女なんて今更古臭いかもしれない。でも、答えなんてわからなくても全力で生き切る宮本の「強さ」は本物だ。

電柱に向かってシャドーボクシングしたり逆立ちしたり、気持ちの置きどころがわからなくなってしゃもじでご飯かきこんだり。もはや小学生と変わらない愚直さ。例のベットの上でぐーすか気持ちよさそうにイビキかくところなんて、最低最悪ですよ。信じられないぐらいバカ。でも、全力で生きている。

大事なときになにもできない。どうにもならなくなってから喚いたり、後悔したり。そして何より「負け」を認めたがらない。宮本はそういう男なのだが、それでも靖子と結ばれ、父になる。でも、愛する女性が身ごもれば父になれるわけではない。お腹が大きくなるわけでもなければ、血も流さない。

(かといって女性もお腹が大きくなれば母になるかというとそうでもないのだが)「宮本から君へ」は、とにかく主語が「男」と「女」である。さらにそこに身体性(主に血)を絡めている。受け取り方を間違えると本質主義に陥る。暴力描写も非常に多いが、かといって「父性」の話かというとそうでもない。

宮本は常にわけわからないこと、理解できないことに対して怒り、喚き、叫び回るのだが、今回はそれが「靖子が傷つけられた」と「靖子が身ごもった」なのだ。ドラマ版の宮本はサラリーマン社会の理不尽、夢と現実の乖離の苦しさ、どうしようもなさに抗った。

映画版のそれは、圧倒的な暴力と、放っておいても育ち続ける靖子のお腹だ。宮本がどれだけ必死に自分事にしようとしても、彼には靖子の二重の苦しみがわからない。もっというとそれは宮本自身で撒いた種だ。それでも宮本は暴れる、愛を叫ぶ。もはや開き直りにも聞こえるけど。頑張るしかないのです。