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「未来のミライ」感想/解説:くんちゃんの時空概念は「いま、ここ」の「おうち」の中で完結している

こんにちは。じゅぺです。

今回は細田守監督最新作「未来のミライ」について書きます。

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細田守監督は「サマーウォーズ」や「バケモノの子」など家族をテーマにした作品を数多く発表してきました。いずれの作品も血の繋がりや種族を超え、「家族」が絆を確かめていく内容になっています。僕はこれまで彼の作品があまり「好きくない」でした。「サマーウォーズ」にしろ「おおかみこどもの雨と雪」にしろ「バケモノの子」にしろ、広大なファンタジー世界を扱うわりに作り込みが甘いんですよね。いちいち細かい愚痴は言わないことにしますが、毎度のこと冒頭15分は素晴らしいんです。ワクワクさせられます。しかし、そこから先、特に起承転結でいうところの「転」あたりから冒頭で提示した世界観のルールを守らず、無理やりオチをまとめてしまう。表面的な面白さ以上に、根本的な部分の破綻がノイズになってだんだんつまらなくなっていく、というのがいつもの彼の作品でした。

そんなわけで「未来のミライ」もあまり期待していなかったのですが、良い意味で僕の予想は裏切られました。面白かったです。もちろん、いくつか致命的な綻びもあるのですが。ツイッターで叩かれているように万人受けする内容ではありませんが、実にすばらしい作品でした。以下、詳しくレビューしていきます。

 

5歳児の見る荒唐無稽な世界

いきなりですが、「未来のミライ」ってタイトル詐欺なんですよね。予告編を見ても、まるでくんちゃんの元に成長した未来の妹がやってきて一緒に冒険するかのような印象を与えますが、全くもってそんな話ではありません。じっさいはというと、両親の愛情を一身に受けて育ってきた主人公のくんちゃん(5歳)が、生まれたての妹、未来に嫉妬し、幼児退行したり、空想の世界に安らぎを求めたり、という話になっています。細田監督の「家族の絆」をめぐる冒険を期待すると肩透かしを食らいます。違うんですよ。この映画、すべてくんちゃんから見た世界を描いているんです(本当にそうなのかという話はまた後で)。

くんちゃんからすれば、妹の誕生によって世界はガラリと変わってしまうんですよね。大好きなお母さんもお父さんも別人のようになってしまって、なぜだかわからないけど、嫌われてしまったような感じてしまう。くんちゃんにはお母さんとお父さんが子どもに注げる時間や、体力、愛情は一定であって、決して家族が増えたからといって、その分だけ注げる量が増えるわけではないということがわからない。両親の愛情が妹に奪われて、くんちゃんは混乱するわけです。テーマとしては、新しい環境で心を閉ざしてしまった女の子ライリーの脳内を心理学的に描く「インサイド・ヘッド」や、生まれたての弟に両親の愛情を奪われた兄が、弟を高圧的な「ボス」に見立てて戦う「ボス・ベイビー」に近いものがあります。

未来のミライ」の評判に、「よくわからない」という声を聞きますが、それはつまり、この映画自体くんちゃんの目線で描かれているからなんじゃないかと思います。くんちゃんは5歳児なので、大人から見ると、無軌道で予想不能な言動をします。ある意味、この「荒唐無稽さ」の再現こそ、本作における細田監督のテーマだったのではないでしょうか。この映画は、お母さんを待ちながら窓ガラスに息を吹きかけて曇らせては消す、という動きを繰り返すくんちゃんから始まります。大人は人を待つことにこんなことしませんが、退屈している子どもならやりそうですよね。お片づけをせずにお母さんを困らせるシーンも「あるある」でしょう。「片付けしたくないからしない」んです。誰が聞いても理不尽ですが、くんちゃんは後先考えず、つねに感情で動いているのです。

 

くんちゃんの時空間概念は「おうち」で完結する

くんちゃんの時空の概念は「おうち」の中でほぼ完結しています。「いま、ここ」における欲望に忠実に動いているのです。劇中、実際にくんちゃんが「おうち」の外に出るのは自転車の練習だけです。「おうち」の中庭は、くんちゃんの「おうち」と「外」を繋ぐ中間ポイントです。くんちゃんは嫌なことがあるたびにここで空想にふけりますが、これは、くんちゃんの世界が外へ外へと広がっていて、もはや「おうち」の中では完結しなくなったことを描いているのではないかと思います。

クライマックスの「家出」はどうなのかというと、現実と空想の境が曖昧ですが、くんちゃんがみずから「独りで」「おうち」の外へと飛び出していらことからわかる通り、彼が大きな飛躍の時期に来ていることが示されています。

中庭で展開される数々の冒険も、くんちゃんの世界が広がっていく予兆になっています。時空の概念が「いま、ここ」で完結しているくんちゃんの元に「未来のミライ」がやって来ることは、くんちゃんが妹の登場によって変化を迎えていることを示唆しているのです。「いま、ここ」からはみ出した存在である「未来のミライ」が会いに来ることを認知している時点で、彼の時空概念が拡張していることがわかります。そこから先、くんちゃんは「過去」のお母さんやひいおじいちゃんに出会う旅を経験し、「未来」の東京駅で家族とはぐれ、最終的に「過去」「現在」「未来」がすべて関わりあうファミリーツリーを目撃し、「未来のくんちゃん」と出会います。くんちゃんの口から「過去」とか「未来」が語られることはありませんが、この冒険を通して確実にくんちゃんの世界は広がり、「過去」「現在」「未来」の間に置かれた自身のアイデンティティを自覚することになります。それはくんちゃんがただ「くんちゃん」であるだけでなく、「ミライのお兄ちゃん」であることを明確に意識するようになるのです。

そして、現実の世界に戻って来たくんちゃんは新しく受け入れた家族とともに「おうち」の外へピクニックに行くのです。くんちゃんの時空の概念は「いま、ここ」から「おうち」の外へと広がり、連続した「過去」「現在」「未来」のタイムラインの中でみずからを位置付けられるようになるのです。

 

くんちゃんの目線を邪魔する大人の目線

ここまで「未来のミライ」は「いま、ここ」しか認知できない5歳児の世界観で描かれていることを指摘してきました。冒頭で触れたように細田作品はファンタジー世界を描くわりに、あまり風呂敷のたたみ方が上手くないので「好きくない」のですが、本作は空想世界をすべて「5歳児の見る世界」という非常に小さなスケールに閉じ込めているので、エクスキューズが効きます。必要以上に風呂敷を広げる必要がないわけです。テーマの選択が巧みだなあと思いました。

が、しかし、「未来のミライ」にも脚本上、致命的なエラーがあります。それは根本的なテーマである「5歳児の目線」と「大人の目線」の混同です。「未来のミライ」は、妹によって両親の愛情を奪われてしまったくんちゃんの内面をテーマに、荒唐無稽な夢世界での冒険と、その裏に隠された「いま、ここ」の概念からの跳躍を、観念的な映像とともに描出しています。

つまり、この映画では「5歳児の目線」があくまで貫徹されるべきなのです。少なくとも「大人の目線」が挿入されるのであれば、その説明や理由づけが必要でしょう。しかし、残念ながら本作は途中から「5歳児の目線」が崩壊してしまいます。それはクライマックスのファミリーツリーの場面です。ここで未来のミライちゃんは作品のテーマについてペラペラと喋り始めます(これもどうかと思いますが)。「過去」と「現在」と「未来」は繋がっていて、いまのくんちゃんは途方もない奇跡の数々の上に存在しているのだと、そう語りかけるわけです。しかし、これはあくまでくんちゃんの脳内世界のはずです。だとすれば、くんちゃんはどのようにして「いま、ここ」からファミリーツリーの概念へとたどり着いたのでしょうか。誰から教えられるわけでもなく、脳内の「未来のミライ」ちゃんがすべてをガイドしています。ミライちゃんのテーマ解説が入らなければ、まだその解釈は受け手に任されるのですが、ここで変にペラペラと喋ってしまったせいで、「5歳児の世界」に「大人の目線」、もっと言えば、この世界の創造者=細田監督の目線が混入してしまうのです。ここはストーリー上のロジックよりも受け手のことを考えてわかりやすさを優先したんだと思いますが、くんちゃん目線で映画の世界に浸っていた僕にはかなりのノイズになってしまいました。ここさえなければ…とすら思ってしまいます。

 

そんなわけで「未来のミライ」を、「いま、ここ」でしか世界を認知できなかった5歳児の成長という目線で読み解いてみました。個人的な評価としては細田監督ベストです。最後の展開でミソをつけてしまうのは相変わらずですが。本作のようにスモールスケールで家族の成長を描いてくれれば、また面白い作品になるんじゃないかなと期待してます。言い忘れましたが、ケモナー要素は除いていただいて…。

 

(ついでに)「未来のミライ」の家族観について

「過去」「現在」「未来」のファミリーツリーの中にくんちゃんを位置付ける家族観に拒絶反応を示す人を、すくなからずツイッター上で見かけました。血縁信仰であり、旧時代的で窮屈な道徳観念であるという批判です。どんな感想を抱こうと個人の自由なのですが、あまりイデオロギーのフィルターを通した読み方をしてナーバスになるのは、作品の本質部分を見落とし、感想が単なるイデオロギーの表明に止まってしまう、そんな危険があると思います。僕自身もやりがちですが、最低限その自覚は持ちたいなあと思うところです。