映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

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「来る」感想:秀樹たちを襲う「ぼぎわん」の正体とは?

こんにちは。じゅぺです。

「ヘレディタリー/継承」の記事でも書きましたが、最近ホラー映画の奥深さにハマっています。というわけで今回は「来る」について。

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「来る」は、幸せな新婚生活を送っていた秀樹を襲う謎の力「ぼぎわん」の恐怖を描くホラー映画です。「ぼぎわんが、来る」というタイトルのホラー小説が原作になっています。今回の記事は「ぼぎわん」の正体の考察を中心に進めていこうと思います。

本作にはホラー映画の面白さを期待していたのですが、意外にもホラー描写以外の部分が楽しめました。グロテスクで大げさなオープニングが既にホラーというジャンルを超えたエンタテイメントであることを予感させます。もちろん得体の知れない「ぼぎわん」が猛威を振るう中盤はホラーとして申し分ない面白さであり、呪いの力で人の腕がもげたり、家の中のお札がバラバラに千切れたり、とにかく不可思議な現象だらけで、それはもうすごいことになってます。勢いがあるんですよね。悪夢を通り越してもはやコントと言ってもいい無茶苦茶な不幸のつるべ打ちに圧倒されてします。

また「ぼぎわん」に振り回される中であぶり出されていく人間の薄っぺらさや身勝手さに震え上がります。ここは純粋なホラーとは違った恐怖がありました。後ほど触れますが、ここに「ぼぎわん」の正体のヒントが隠されています。

そしてクライマックスはパワフルな除霊バトルへ。「哭声/コクソン」のようなド派手で(明らかにホラーというよりコメディに寄せている)荒唐無稽な儀式は、あまりにアホらしくて思わずニッコリしてしまいました。お坊さんも除霊師も巫女も同じ舞台で舞い「ぼぎわん」と戦います。神仏習合の日本らしいバトルです。これまで見たことのない光景に興奮してしまいました。

最後に考えたいのが「ぼぎわん」の正体です。ヒントとなるのは、ケガレへの忌避、不幸な環境の連鎖、(作り手がどこまで意識していたかはわかりませんが)日本社会のミソジニーでしょう。

まず「ぼぎわん」は前半の主人公・秀樹の出身集落に伝わるお化けです。「ぼぎわん」に名前を呼ばれると、向こうの世界に引きずり込まれてしまうと言われています。彼は幼少期の頃から「ぼぎわん」がそばにいることを認知しており、大人になってからは意識的にその記憶を封じ込めようとしていました。「ぼきわん」の記憶に結びついてくるのは、失踪した同級生の女の子や寝たきりだった祖父です。ここには明らかに死の匂いを感じます。加えて、この集落では「子捨て」の習慣があったことが明かされています。秀樹の友人の民俗学者・津田も、子を連れ去る妖怪の類いは「子捨て」を隠蔽するための言い訳や建前に過ぎなかったのだと語っていましたね。

また、ファーストカットから綴られる秀樹の幼少期のトラウマでは「握りつぶされた蝶々」と「地面に転がる多数の芋虫」のイメージが示されていました。この芋虫の群れは「ぼぎわん」が「来る」ときのモチーフとしてこのあと繰り返し登場します。

いちばん「正解」に近いと思われる描写は野崎の悪夢です。「ぼぎわん」に取り憑かれた一家を救うために秀樹が頼ったライターの野崎は、実は妻に妊娠した子どもを堕胎させていて、そのことをずっと悔やんでいたのです。物語も佳境に差し掛かった後半、野崎が自分の子供を抱えたまま川に入水すると、周囲におびただしい数の赤ちゃんが浮いているという非常に気味の悪い夢のシーンがあります。この赤ちゃんは明らかに芋虫の群れと重なる描写になっていて、だいたい見ていてここら辺で「ぼぎわん」の伝承の意味はわかるようになっています。

すなわち、集落の言い伝えや秀樹たちのトラウマから分かるのは「ぼぎわん」が死を連想させる穢れの忌避や、古来日本の村落で繰り返されてきた悲しい風習に密接な関わりがあることです。素直に解釈すれば、「ぼぎわん」は、これまで大人の都合で殺されてきた無数の赤ちゃんたちの怨念や怒りの集合体です。芋虫の群れは未発達の胎児のモチーフであり、握りつぶされた蝶々はそんな幼い命たちが「羽ばたく」前に芽を摘まれてしまったことのメタファーでしょう。育児放棄して自分を良く見せることに腐心していた秀樹は「ぼぎわん」の目に留まり、残念ながら恐怖に打ち勝つことができず、負けてしまいました。秀樹の妻・加奈も同様で、結局最後は子育ての重圧に耐えられず、子どもの虐待に走ってしまい、「ぼぎわん」に呪い殺されてしまいました。

しかし「ぼぎわん」に殺されたのは、必ずしも子育てに関わる人びとだけではありません。もちろん、秀樹や加奈に取り憑く中でその力を増し、誰彼かまわず呪い殺すようになったと解釈するのもいいのですが、僕はもう一歩踏み込んでその意味を考えてもいいと思っています。

おそらく「ぼぎわん」は誰の人生にも潜んでいるものです。それは「痛み」です。クライマックスの除霊バトルを目前に控え、野崎は霊媒師に以下の内容のことを言われます。「ここからの戦いは非常に危険なのでこちらの世界とあちらの世界の境目が曖昧になります。自分がどちらにいるかわからなくなった時はナイフで自分の手を刺しなさい。痛みがあなたをこちらの世界に呼び戻します」と。これは非常に重要なセリフだと思います。つまり「ぼきわん」は「痛み」と向き合えない人にやってくるのです。当然、現実に向き合わず「子捨て」に走ってしまうことは「痛み」からの逃避でしょう。イクメンパブログの執筆で悦に入っていた秀樹も、夫の愚行に耐えられず浮気に走ったり育児放棄をした加奈も、そんな彼女の弱みにつけこんだ津田も、みんな「痛み」から目を背けています。もちろん堕胎の過去を忘れようとした野崎も、完ぺきな除霊しに見えた琴子も、その妹の真琴も、生身の人間である以上、常に「痛み」と真正面から向き合えるとは限りません。時には逃げたくなる時だってあります。

でも、そんな苦しい時でも「痛み」=「ぼぎわん」と戦えるかどうかが、人生の軌道を元に戻せるかどうかの分かれ目なのです。野崎と真琴は壮絶な戦いの中で「痛み」に打ち克ち、知沙を授かることができたのです。あくまでホラー映画的な「子捨て」の伝承と絡めた「ぼぎわん」の正体を示しつつも、もう一段深いレイヤーにも読解の余地を残したところが秀逸なお話だったと思います。良作でした。