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「クリード 炎の宿敵」感想:ロッキーにもクリードにもなれなかった男たちの輝き

こんにちは。じゅぺです。

今回は現在上映中の映画「クリード 炎の宿敵」の感想を書きたいと思います。

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クリード 炎の宿敵」は「ロッキー」シリーズの第8作目であり、新章「クリード」シリーズの第2作目でもあります。

前作「クリード チャンプを継ぐ男」では、アポロ・クリードの隠し子アドニスが恵まれた環境をすべて捨て、かつて父が立った舞台に上がるため、アポロの親友でありライバルのロッキーにボクシングの指導を依頼する…という話でした。物質的には豊かな生活を送りながら生きる手応えを得られず、ボクシングに活路を見出すアドニスの姿は、どん底のチンピラからアメリカン・ドリームを掴んだロッキーと対照的であると同時に、非常に現代的な問題を映し出していました。そして、ベルトをかけた戦いに挑むうちに、これまで人生の呪縛だった「クリード」という名前が、自らの存在を肯定する父の形見になっていく流れに「ロッキー」ファンとしては涙を流さざるを得ませんでした。コンランのパンチをもろに食らって意識が朦朧とする中、アポロの幻影が彼を奮い立たせる場面は最高に熱かったです。「証明してやる。俺が"過ち"ではないということを」と呟いてリングに立ち向かうアドニスは、「最後までリングにたち続けてゴロツキでないことを証明するんだ」と燃えていた「ロッキー」第1作のロッキーと重なります。また、これまで何度くじけそうになっても立ち上がってきたロッキーが癌にかかり、万事休すかと思われた時、アドニスの激励と戦いぶりを見ることによってふたたび人生に希望を持ち始めるところは、「ロッキー」シリーズの世代交代を強く印象付けました。

前置きが長くなりましたが「クリード」シリーズは「親子」と「戦う意味」が重要なテーマになっています。二世ボクサーであるアドニスアイデンティティに迫っていくと、どうしても「アポロ」の壁にぶち当たるのです。前作「クリード チャンプを継ぐ男」では、自らこれまで隠してきた「クリード」の姓を名乗り、避け続けてきた父の影と正面から向き合いました。アポロという伝説的な存在に引け目を感じ、満ち足りない感情を抱いていたアドニスにとって、ボクシングに向き合うことは、自らのアイデンティティを確かめる儀式だったのです。おそらく今は亡き父に認めてもらいたい、父を超えて偉大なボクサーになりたい、という気持ちもあったはずです。

ところが、本作「クリード 炎の宿敵」のアドニスはすでにその目標を達成した状態です。試合は判定負けだったものの、コンランの引退によってヘビー級チャンピオンの称号を手に入れたアドニスは「追われる側」になります。彼にとって「戦う意味」は大きく変質していました。挑戦してから敵を迎え撃つ、「守り」の姿勢です。愛するビアンカと結婚し、地元のフィラデルフィアを離れ、もうすぐ子どもも産まれる。幸せな生活を続けるために、彼はリングに立ちます。もちろんそれはとても大事なことです。しかし、そこにはもう「さらに上へ」を目指す熱い気持ちも向上心もありません。

そんな彼に戦いを挑むのが、ドラゴ親子です。イワン・ドラゴは、ロッキーとの戦いに敗れた結果、国中の敬意を失い、妻を失うだけでなく、祖国ロシアも追われる羽目になりました。イワンの息子・ヴィクターも、尊敬する父をどん底に追いやったロッキーやアポロに強い恨みを抱いています。「こんなはずではなかった」という気持ちが、彼らを突き動かしているのです。そして、ドラゴ親子はやり場のない怒りや復讐心を、アドニスに向け、対ロッキー戦の雪辱を晴らすことを誓います。

当然、アドニスはそんな彼らの勢いに勝てるはずもなく、散々リングの上でいたぶられた挙句、ノックアウトされます。ヴィクターの反則にも助けられ、ヘビー級チャンピオンの座は守りますが、アドニスは心身に大きなダメージを負い、戦闘意欲を完全に失ってしまうのです。

ここまでくるとわかるんですが、この映画の真の主人公はドラゴ親子なんですね。アドニスと比べてもはっきり「戦う意味」を持っています。「クリード 炎の宿敵」は、「ロッキー」にも「クリード」にもなれなかった男たちの悲哀に満ちた復讐の物語でもあるのです。どこまでも満たされない気持ちを抱え、彼らは何十年も地べたを這いずり回って生きてきました。ロッキーは窮地に立たされるたびに、愛する家族やフィラデルフィアの仲間たちに励まされ、不死鳥のごとく蘇ってきました。でも、現実はなかなかそうもいかない。「敗者」の烙印を押され、ずっと「あの日、あの時」で時間が止まったまま、怒りと恨みと復讐心を原動力に生きていく人だっているのです。そんなドラゴ親子がチャンピオンベルトと妻であり母のロドミラの愛を夢見る姿に、僕は胸を締め付けられました。

一方、アドニスは大きな挫折を経験したのち、ヴィクター・ドラゴとの再戦に挑みます。自らのチャンピオンの地位を守るため、半ば強制的に引きずり出された形ではありますが、ロッキーと「痛みに耐える」訓練を積むうちに、彼は自覚します。「戦う意味」は今も変わらない。それは、アドニスクリードという男の存在を証明するためであると。しかし、リングの上に立つのは、自分が偉大なボクサー・アポロを父に持つからでも、天国の父に自分を認めさせないと足元が揺らぐからでもありません。アドニスは「戦い続ける自分」こそが本当の自分なのだと気づきます。ボクシングを辞めたら、次々と襲いかかる敵や困難に向き合うことを諦めたら、それはもう自分ではない。ここにきて初めて彼は「アポロ・クリード」の呪いから解放され、自らのアイデンティティを再定義します。「アドニス・"クリード"・ジョンソン」になるのです。

対するドラゴ親子は、未だに30年前の戦いで時が止まったままでした。アドニスvsヴィクターのラストマッチは見ていて辛かったです。アドニスは、ドラゴ親子の負のエネルギーを凌駕する、圧倒的な技術と意志でヴィクターを圧倒します。一方のヴィクターも、観客席にいる母の気持ちを繋ぎ止めるため、ここまで背中を押してくれた父を失望させないために、全身の力を振り絞って戦います。お互いフラフラになりながらもリングの上で殴り合いを続ける様は、まさしく「死闘」としか形容し得ないものでした。

この試合の決着は意外なものでした。イワン・ドラゴが、限界寸前の息子に見かねてリングにタオルを投げるのです。あの傲慢で勝気なイワンがギッブアップするとは。非常に大きな驚きでした。しかし、「負け」を認めることによって初めてドラゴ親子は「負け」から解放されたのです。ある意味、これまでドラゴ親子は、ロッキーに負けたあの日から「負け」を絶対に避けるべきものとして忌み嫌ってきました。だって、あの時ロッキーに勝ってれば、いまごろ国民の英雄としてバラ色の人生を送っていたでしょうから(少なくとも親子は祖国を追われることなく、家族円満だったと思います)。

「ロッキー」シリーズが繰り返し問うてきたのは、本当に「勝ち/負け」が絶対なのかということ。そして、いちばん大切にすべきなのは「最後まで自分と向き合い、戦い続けること」ということです。試合終了のゴングが鳴るまで、痛みに耐えて、人生のリングに立ち続ける。そうすれば見えてくる景色がある。これこそが「ロッキー」シリーズに通底するメッセージだと思います。

しかし、それはいつまでも過去にこだわり続けるということではありません。ドラゴ親子は、人生のターニングポイントになった敗戦を引きずっていました。ロッキーはリングの上でアポロが瀕死の重傷を負ってもタオルを投げませんでした。それはアポロ本人が望んだことでもあるから、最悪の結果になってしまったにせよ、ロッキーを責めることはできません。そういう生き方もありだと思います。でも、イワンは同じ轍を踏まなかった。彼は一度した失敗は二度と取り返せないことを知り、「諦める」ことで人生を再スタートする切符を手に入れました。それもまた正解なのです。見苦しくもがくことも大事だけど、その上で引き際を見極めることだって、同じぐらい大事です。イワンとヴィクターはこれ以上ないぐらい頑張ったのだから、こんどは別のリングで戦えばいいのです。

アドニスとヴィクターの戦いは、ロッキーの人生にも影響を及ぼします。この試合を通して、アドニスはアポロ、ヴィクターはイワンという偉大な父の呪縛から解放され、本当の意味での自分の人生を歩み始めます。ロッキーはアドニスの勝利に歓喜するリングを眺めながら、自分の出番が終わったことを悟ります。もはや「ロッキー」の世代の物語は幕を閉じたのです。彼も「アポロ」と「イワン」に束縛された人生を送っていました。アポロを救えなかったトラウマが、いつまでも体にまとわりついて離れなかったんですね。でも、アドニスは一人で旅立ちました。だから、こんどはロッキーが再び自分の人生に向き合う番なのです。これで「ロッキー」シリーズも一つの節目を迎えたと言えるでしょう。

「タオルを投げる」というイワン・ドラゴの決断は、ロッキーやクリード親子とは別の方向を向いていたと思います。彼らはどこまでもロッキーのカウンターであり、映し鏡なのです。そしてそこにこそ彼らの輝きがあると思いました。