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さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「ミスター・ガラス」感想:クリエイターと観客の関係

こんにちは。じゅぺです。

今回はM・ナイト・シャマラン監督最新作「ミスター・ガラス」の感想です!ネタバレありなので未見の方はご注意を。

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シャマラン監督といえば「シックス・センス」でおなじみですね。オカルトチックなホラー映画を得意としている監督と認識しています。というのも見たことあるのが「シックス・センス」と「スプリット」だけで、あんまり彼の作品をよく知らないんですよね。とにかく最後にどんでん返しを入れてくる人、というイメージです笑

今回ご紹介する「ミスター・ガラス」も「アンブレイカブル」と「スプリット」の続編なのですが、「アンブレイカブル」の方はネットであらすじ調べて済ませてしまいました。さっさと予習しておけばよかったんですけど、スケジュールの都合上「ミスター・ガラス」の方を先に見ることにしました。

本作「ミスター・ガラス」は、自らの超能力を信じる3人の「異常者」が、その「妄想」を脳内から取り除くために同じ精神病院に集められ…というお話です。彼らは果たして本当に「選ばれし者たち」なのか、それとも単なる精神異常者なのか?か物語をドライブする大きな謎になっています。

過去作「アンブレイカブル」と「スプリット」を見た観客は、当然主人公たちを「特別な能力がある人たち」だと思っています。しかし、本作新たに登場する精神科医のステイプルは3人を「信じたいもの信じているだけ」と切り捨てます。彼らは妄想によって認知が歪んでいる、自分が特別だと思いたいがために事実を捻じ曲げて解釈していると言いたいのですね。ダン、ケビン、イライジャの3人は、彼女に執拗に否定され続けることで徐々に信じる世界にヒビが入り、疑心暗鬼になりながらも、自らの存在理由を探し求めていくのです。まさしくタイトルの通り、ガラスが割れるように信じていた世界が壊れていく感覚を味わえます。

 

自分の信じていた世界が足場から崩れていく体験

ダン、ケビン、イライジャとキャラの立ちまくっている3人ですが、自分は能力者じゃないのかもしれないと思いはじめた時のそれぞれ反応がたいへん興味深いです。

たとえば、いわれもなく(と当人は思っている)監獄に閉じ込められたダンは自分が単なる異常者だと思い始め、これまでの全てが否定されたような感覚に陥ります。ある意味、彼は身体が変わってるだけで中身はわりと普通ですから「常識人」枠ですね。誰だって自分に特別な力が備わっていたら、それを生かそうと考えるでしょうし、成すべき使命があるのではないかと信じたくなるでしょう。ステイプルの言葉に振り回されてしまう繊細さも含めていちばん人間くさいし、僕ら観客の目線に最も近いキャラクターかもしれません。

一方、ケビンの肉体に宿る「群れ」は、ここを脱出すべきか、それとも「治療」を受けるべきなのかさまざまな人格が対立し、頭の中大混乱状態です。この時のJ・マカヴォイの多重人格演技がすさまじくて僕も脳が混乱しました。わざわざ長回しで人格の入れ替わりのタイミングもじっくり映し、臨場感たっぷりにそのイカれっぷりを見せてくれます。見た目は一緒なのに本当に「目の色」が変わるんですよね。マカヴォイさんもさぞかし演じ甲斐があったろうと思います。

前作「スプリット」ですさまじい恐怖を観客に与えた「ビースト」を解放するか否かも、お話のキモになってきます。こいつがいつ出てくるかわからないところに「群れ」の本当の危険があるわけですから、彼の頭の中で理性が勝つのか、それとも獣の反応が支配してしまうのか、かなりビクビクしながら見ていました。「ビースト」が覚醒してゴキブリみたいに壁を伝う度に、変な声が出てしまいましたよ。とっても気持ち悪かったですね。

そして最後にイライジャ。薬漬けの廃人状態で登場しますが、実は看守の目を盗んで薬物の注入を免れており、かねてから計画してきた作戦の実行の準備をしていました。彼はこの世界には超能力を持つ者たちが確実にいて、神話やコミックは彼らの存在を証明する重要な資料であると固く信じています。イライジャだけが最初から最後までブレません。最終的には死が訪れることを予感しながら、それでも超人たちの存在を世に知らしめ、自分の人生が正しかったことを証明しようするのです。

また、彼らが能力者であることを信じる人達も登場します。デヴィッド・ダンの息子のジョセフ、「スプリット」で唯一ケビンに殺されなかった少女・ケイシー、そしてイライジャの母(名前出てきましたっけ?)の3人です。ジョセフとイライジャの母はいちばん側で彼らの葛藤を見守ってきた家族として、ケイシーは同じトラウマを抱えた生身の人間として、彼らと接してきました。

自分が超能力者だと信じる3人の男と、そんな彼らを異常者扱いする精神科医と、それぞれの家族や友だちの無実を信じる3人の一般人。この3つの線がダイナミックに交錯していく過程が本作のドラマの軸になっています。

正直、この映画ってキャラが立ってるから見ていて楽しいんだけど、あんまりノレてないんですよ。おそらく半分ぐらいは「アンブレイカブル」を見ていない僕のせいでもあるのですが、「スプリット」もちまたで騒がれるほどには好みでもなかったし、こんなもんかな〜と思っていました。最後のどんでん返しがあるまでは。

 

イライジャが切り開いた世界

イライジャの綿密な作戦によって、3人の能力者は病院の外に脱出することに成功します。そして自説の立証を望むイライジャと「ビースト」として覚醒した「群れ」は、街の中心部に完成した高層ビルで大規模なテロを企てます。監獄を脱出したダンはついに病院の前でイライジャ/ビーストと対峙し、最後の戦いを繰り広げるのです。

結局、壮絶な戦いの末にイライジャはビーストに襲われたことによる全身複雑骨折により死亡し、ダンとビーストも特殊部隊に暗殺されてしまいます。しかもその特殊部隊は精神科医のステイプルの指示で二人を殺していたのでした。彼女は、社会の秩序を守るために超人たちの存在を隠匿する秘密結社の一員だったのです。イライジャの説は正しかったんですね。

3人の死亡によって一度はすべてが闇に葬り去られたかに思えた超人たちの存在ですが、イライジャは秘密組織が彼らを妨害することすら予見しており、施設の監視カメラをハッキングして、ダンやビーストが能力を発揮する様が写っているビデオをインターネットで拡散します。ついに世界は隠されてきた真実を知ることになるのです。

さすがにクライマックスの怒涛の展開にはテンションが上がりました。なにより素晴らしいのが、いちばん最後にきてお話が「ヒーローを信じる人たち」すなわち「観客の私たち」の目線になることです。作品の中で言えばジョセフやケイシーの目線になります。みんなデヴィッドや「ビースト」に比べればなにも力を持たない、むしろ弱い立場に置かれたふつうの人たちです。そんな彼らが、世界がヒーローたちを認知することによって救われる。つまり「ヒーローを信じていた自分」が肯定されることによって、ジョセフたちはみずからのアイデンティティに誇りを持つことができるようになるわけです。超能力の発現によって「自分」を形成するダンやケビンに対し、ジョセフやケイシーのような一般人はそれだけで自分を特別に思えるようなものは何も持たないけれど、それでも、何かを信じ、願うことによって自分が何者なのかを定義することはできるのではないか。僕はそういう風に解釈しました。

これってちょうどクリエイターであるシャマラン監督やコミックのライター/アーティストと、それらのコンテンツを享受するファンやオタクの関係みたいではないですか?ヒーローや力への憧れを捨てないことで報われる。単なる慰めでしかないかもしれないけど、僕は見ていて嬉しかったし、べつに消費するだけの自分を卑下する必要もないかもしれないと思えました。一点突破の破壊力がある作品でした。