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「サスペリア(2018)」感想:歴史の循環の中で

こんにちは。じゅぺです。

今回は話題作「サスペリア」の感想です!

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サスペリア」は1977年に公開されたダリオ・アルジェント監督の同名ホラー映画を現代風に「再構築」した作品です。ヴェネツィア国際映画祭で公開された際はその大胆なアレンジに賛否両論が巻き起こりました。大きな注目を集めていた作品です。

結論から言うと、賛否で言ったら僕は若干「否」寄りです。それは衝撃的な展開や原典に対するアプローチが気に入らないのではなく(むしろそこは面白いと思いました)、見せ方のつまらなさからです。

 

なぜスージーの正体は魔女に変更されたのか

まずは、アルジェント版「サスペリア」との比較で面白いと思ったポイントをまとめたいと思います。アルジェント版でも大きな柱になっている「魔女たちが隠れて行なっている呪いの儀式から逃げようとする屋敷の少女たち」というコンセプトに変わりはありません。しかし、それ以外はほとんど違います。まったく別の映画になっていますね。同じ材料を使って和食を作るか、それとも中華を作るか、ぐらいの差があります。

いちばん大きな変更点は、もちろん、原作同様、魔女たちの生贄になると思われていたスージーこそ「マザー・サスペリウム」本人であるという設定でしょう。アルジェント版「サスペリア」は、一般的なホラー映画の関心を踏まえたものになっていて、主人公のスージーはひたすら魔女たちの陰謀に振り回される存在です。彼女が主体的に運命を変えていくということはない。僕たち観客と同じ目線で、理不尽なできごとに恐怖しながら、命からがら屋敷を抜け出します。これは個人の趣味の領域ですが、可憐な女の子が酷い目に遭うのを見て楽しむ(別に男でもいいですが)、そういう快楽もこの手の映画にはあると思うんですよね。

しかし、グァダニーノ版は違います。もちろん、パトリシアやサラなど散々苦しんだ後むごたらしい目に遭う女の子はたくさん出てきますが、主人公のスージーは違います。親友のサラが危険を察知して知らせてあげても「それがなに?」ですし、魔女たちが隠れて刑事を辱めている様を覗き見してもニヤリと笑います。オチを知ってしまえば納得ですが、最初から最後までほとんど感情を見せず、むしろ唯一作品世界で俗世を超越した人間として描かれているのは、僕は結構珍しいと思いました。

なぜスージーにこのようなキャラ変更がなされたのでしょう?僕はグァダニーノ監督がこの作品で描きたかったテーマに関係していると思います。それは、繰り返される歴史における偽りの支配や抑圧、苦痛からの解放です。この作品は1977年の東西ドイツが舞台です。ベルリンを真っ二つに分断する壁は、否応なしにホロコーストに代表される第二次世界大戦の惨劇とその後の冷戦体制を想起させます。エレナ・マルコスの支配する女の花園は、まさしく権力による抑圧と閉鎖性を象徴していますし、ユダヤ人迫害によって夫婦離れ離れになってしまったクレンペラー博士は愚かにも過ちを繰り返す人類の業を背負わされています。そこに歴史の陰に隠れて連綿と続いてきた魔女の集団生活が交錯します。自分勝手な願いのために無垢な少女たちを食い物にしてきたエレナ・マルコスはきっと何百年もの間、人類の歴史を見つめてきたはずです。

なんども過ちを繰り返し、延々と循環し続ける時間の輪。スージーに宿るマーザー・サスペリウムは、こうした過去を清算するために現れるのです。魔女の宿る先が主人公のスージーなのは、1977年版「サスペリア」のような典型的なホラー映画にでてくる少女像へのカウンターとも取れます。狭いお化け屋敷で翻弄されるのではなく、むしろ世界の破壊者として立ち現れるスージーに昨今の女性像の変化を混ぜ込んだという解釈も成り立つのでないでしょうか。

 

循環する過ちの歴史

ところで、この映画が真に恐ろしいのはそのラストです。スージーは偽物のマザー・サスペリウムに生贄として捧げられそうになっていたサラやパトリシアに「解放」を約束し、息の根を止めます。さらに自分の犯した過ちに苦しんでいたクレンペラー博士には、悪い記憶をすべて取り除くという処置を施します。映画のラストには、そんなクレンペラー博士がかつて妻と愛を誓い合った落書きがかすかに残る彼は家の現代の様子が映されます。表面的に見れば、悲しい記憶を消し去り、辛い現実からは「死」という形で解放してあげるという、ひとつの「救い」を示したオチになっています。人類の過ちに対するマザー・サスペリウムの「赦し」と捉えることもできますね。しかし、裏を返せば、こうして過去の失敗や都合の悪い経験を忘れ去り、後世に教訓を伝えることを放棄してしまうことで、結局歴史は循環してしまうという悲劇的な結末でもあります。クレンペラーの波乱の人生を覚えている人はもうこの世にはいないのです。誰も人類の愚かさを反省しようとしない。いつかまたナチスによるホロコーストのような偽りの支配と抑圧の時代がやってくるかもしれないという予感があります。いや、むしろ人類の歴史からそのような過ちが綺麗さっぱり無くなった日などありません。この循環はいつまでも終わらないのです。

 

ポストクレジットシーンの意味

エンドクレジット後、気になるシーンが挿入されます。街中を歩くスージーが、街角の建物の壁になにかを見つけて手をかざし、そっと微笑むのです。非常に大事な描写であることはわかるのですが、正直ぼくはまだ理解しきれていないです…。おそらく彼女がクレンペラーにしたように、不思議な力を使って観客になにかを働きかけているのだろうと思います。スージーは私たちの記憶すら消そうとしているのでしょうか?アルジェント版のラストを思わせるモヤっとエンディングでした。

 

一方、お話の見せ方は…

グァダニーノ版もアルジェント版同様、シチュエーションはとても良かったと思います。分厚い雲に包まれた鬱屈としたドイツの空と、躍動する肉体と鮮血のグロテスクなコントラストは印象的でしたし、ひとが死ぬシーンのどぎつさはなかなかです。やはり「痣」ってリアルに痛みを想像できるから辛いですね。その皮膚の下にはたくさんの血が溜まっているんだと思うと、ヘタに腕や頭がもげるより怖くなります。また、例のコンテンポラリーダンスは人体の美しさや生命の重みを感じられてよかったです。迫力がありました。バレエから変更したのは正解だったと思います。独特の世界観がありました。

しかし、全体的に演出にセンスを感じませんでした。衣装も、俳優の演技も、舞台設定もよかったのに、きっとアルジェント版のイメージからあえて引き離したかったのでしょうが、画面が薄暗いせいでよく見えません。色調を落とすにしても、光と陰のコントラストを強調するとか、他にやりようがあったと思います。カメラも不自然で、クローズアップの使い方も僕にはよくわかりませんでした(きっと本当は意図があるんでしょうけど)。グァダニーノ監督は「君の名前で僕を呼んで」でものっぺりした演出の監督という印象があり、やはり僕の好みと合わないのかもなと思いました。

 

まとめ

全体で振り返ってみると、頭で解釈する分には楽しいけど、さすがに2時間半という尺での鑑賞に耐えうる内容ではなかったと思います。それは特に映像や演出の面での理由で。話題作だけに期待も大きかったのですが、その分ハードルを上げすぎたかもしれません。ちょっと残念!