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「バーニング 劇場版」感想:"ない"ことを"ない"と認知するということ

こんにちは。じゅぺです。

今回は「バーニング 劇場版」の感想です。

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「バーニング 劇場版」は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」をイ・チャンドン監督が実写化した作品です。カンヌ映画祭では「万引き家族」とパルム・ドールを争うなど、国際的には高い評価を受けました。アカデミー外国語映画賞では惜しくもノミネート漏れ…アカデミー会員はそろそろ韓国映画も評価してほしいなと思うところです。

 

「バーニング 劇場版」のあらすじ

この物語は、小説家志望の青年ジョンスは幼なじみのヘミと再会するところから始まります。彼女が金持の男ベンを連れてきて、3人で会う機会も増えてきた矢先、ヘミが姿を消して…。中盤以降、物語はジョンスの心の深い部分まで入り込み、どこまでが事実で、どこまでが妄想なのか、境界線を曖昧にしたまま進みます。誰も覚えていない井戸のことを話すヘミは嘘つきなのか?ベンの部屋にある時計はヘミのものなのか?ベンは放火を趣味にしているのか?はっきりとした事実は示されず、エンディングが二段階であるなど、抽象度が高く難解な内容になっています。

 

"ない"ことを"ない"と認知すること

難解なストーリーを解釈する上で重要なヒントが冒頭に示されています。ひさびさに再会したジョンスとヘミがパブでお酒を煽る場面、ヘミが最近習っているというパントマイムを披露しながら語る言葉が重要です。彼女はパントマイムのコツは「それが"ある"と思い込むのではなく、そこに"ない"ことを"ない"と思う」ことにあるのだといいます。これだけ聞くとなんのことやらという感じですが、ヘミの失踪以降の展開を見ると、彼女の居場所を探すうちに妄想に囚われていくジョンスの行く末がここに暗示されていることがわかります。

ジョンスという男には想像力が欠けています。彼は作家を志しながら、1ページも小説を書き進めることができません。メタファーという言葉の意味すら知らないのです(ジョンスはベンに語義を問われて話を逸らしました)。ベンがビニールハウスへの放火を趣味にしていると語れば、それを言葉通りに捉えて、ビニールハウスの被害がないかどうか毎日確認してまわるほどです。上流階級のベンがそんなことをするはずがなく、鈍感なジョンスをからかったか、せいぜい自分の女遊びを火遊びにたとえてみた、程度のことだと思うのですが、ジョンスにはそういう察しすらつきません。しかもただ「怪しそう」というだけでベンをつけ回し、犯罪者扱いする始末です。

ジョンスには、そこにあるものを"ある"と捉えることしかできない。いや、むしろもっと狭い視野かもしれません。見たいものしか見ない。自分の信じる世界こそ"真"であり、視界から漏れるものはすべて"偽"であると。目の前にオレンジを想像したいとき、ジョンスは"ある"と思い込むことはできても、"ない"ことを"ない"と認知することはできない。そこに世界の裏側を覗き見るような想像力はなく、ただ虚しい妄想の力だけが残ります。堂々巡りの末にジョンスがどこにたどり着いたか。考えるだけで恐ろしいですよね。

 

交わらない視線

「バーニング 劇場版」は、世界をどう見るか?がテーマであり、そして認知とは案外不安定なもので簡単に揺らいでしまうものなのだということを突きつけている映画だと思っています。ジョンスのように実直ではある一方、まったく想像力を働かせず、ヘミの苦しみに気づくことすらできなかった人もいれば、ベンのように表向き人当たりはいいけれど、涙を流したことが一度もなく、精神的豊かさを求めて虚ろに徘徊する人もいる。それぞれに映る世界は平行線のまま、交わることなく破局を迎えます。そして"真実"は人の数だけ存在するのです。

そのハイライトとなるのが、本記事のサムネイルにもなっている夕陽の場面。ここが物語の起点となります。青の混じった光を浴びて、すべてを解き放つように舞う半裸のヘミは惚れ惚れするほど美しかったです。静かながら臨場感たっぷりの映像に浸ることのできる名場面になっています。そしてすでにここで本作のテーマは語られているのです。ジョンスのぽかんと空いた間抜けな口、ヘミの物憂げな目つき、そしてベンの意味ありげな笑み。三者三様の面持ちで夕陽を眺める印象的なカットは、彼らの見る景色が重なることは永遠にないことを暗示しています。同じ夕日を眺めていても、3人は別々のことを考えている。ベンがへミの熱心なおしゃべりに退屈してあくびをかみ殺すように、そして、トランプが演説で堂々と虚言を撒き散らすように、見る人によって現実は異なり、だれの世界も少しずつ歪んでいるのです。

このテーマは、ヘミの家のネコ、庭にあったはずの井戸、燃やされたビニールハウスなど、いたるところに散りばめられたメタファーによって繰り返されています。ベンが"同時存在"を語るように、真実はいたるところに存在します。もっとも虚しいのは、主人公のジョンスは最後までそのことに気づかないことです。その裏には貧富の差、教養と想像力の欠如といった韓国社会の矛盾もひそんでいます。歪んだ認知は、接点を求め、どこまでも空虚にさまよい続けるのです。

 

エンディングの解釈

はじめに触れたように、この映画はクライマックスが二回あります。一度めは、消息を絶ったヘミの部屋で彼女の幻影に抱かれながら自慰にふけり、最後はPCに向き合って小説の執筆を始める場面。二度めはその直後、人気のない場所にベンを誘い込み、包丁で滅多刺しにした上にポルシェごと燃やしてしまう場面。途中からヘミの幻影が出てくることからわかるように、作り手はこのラストを意図的にぼやかしています。素直に受け取れば、ベンの殺害はジョンスの小説の中の出来事ですし、別の解釈をすれば、小説に向き合いながらも鬱憤を晴らせなかったジョンスがほんとうにベンを襲ってしまったと考えることもできます。もしかしたら、この物語全体がジョンスの妄想、もしくは彼の書いた小説なのかもしれません。

ここでどの解釈が正解なのかを考えることもできますが、答え合わせのような形で見方をひとつに固定することはできないのではないかとも思います。つまり、真実はいたるところに存在し、人によって見る世界は異なるのだということです。「バーニング 劇場版」は全体と細部を行き来しながら、有機的にそのテーマを紡ぎ出すような構成になっているのではないでしょうか。傑作でした!