映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「ミッドナイトスワン」感想

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ミッドナイトスワン、みた。新宿2丁目で踊り子・凪沙のもとに、育児放棄された親戚の子・一果がやって来て…。ふたりがバレエを通して心通わせて行く前半部分まではことしベスト。テーマ曲「Midnight Swan」のピアノ旋律の切なさ、転調後の力強さは最高。音楽の力って凄い。しかし後半…好きじゃない。

コンクリートにカビの生えてそうなボロ団地の廊下で、ひとりこっそりとバレエの練習に励む一果。彼女のためならと自慢の長髪をばっさり切り落とす凪沙。大都会の隅っこで我慢を強いられてきたふたりの、ささやかながらも美しい真夜中の交感。ふたり並んだ後ろ姿のなんて美しいこと。

自分を大切にできなかった、させてもらえなかったふたりの輝きは本物だったと思う。「母親」の自覚が芽生えるとともに凛とした美しさを増して行く凪沙。草彅剛の表現はずば抜けてたと思う。あの人の横顔、全然気づかなかったけどすごく綺麗なんだな。しかし、だからこそか、その美しさが切ないのだ。

一果役の服部樹咲は本当に素晴らしかった。身体と佇まいであそこまで成長と洗練を表現しているのだから信じられない。あの年頃の女の子なんて一年もすればガラッと変わってしまうでしょ。最初と最後で別人のようになってる。頼りなかった細い手足が、しなやかで美しい白鳥の翼に生まれ変わるのだ。

しかしこの映画は前半と後半でテイストが少々異なる。俺は凪沙にフォーカスした前半がたまらなく好きだったのだが、一果の成長に主軸が移るにつれ、映画はどんどん輝きを失っていく。なぜトランスジェンダーの人生は「悲しく」あらねばならぬのか。彼女は惨めな目に遭う必要はあったのだろうか。

たしかにクィアに対する日本社会の目線は冷たい。俺自身すべてを理解しているつもりはないし、そもそもできないと思っている。しかし、だからと言って物語に於いて彼らに定型的な「悲しい」役目を押し付ければそれは現実を、生身の人間を描いたことになるのか。ステレオタイプそのままではないか。

河野真太郎先生は「本質主義的な異性愛規範や健常身体性主義から一歩も出ない物語」としているが、自分なりに読み解けば映画は結局のところ彼らを「こちら側ではない人たち」としてしか描けなかったのではと思います。彼らがトランスだから不幸であるかのように見えてしまう。

「海」や生き生きと踊る一果の表情を捉える映像は本当に素晴らしく、歌舞伎町の住人たちの生き様(ショークラブの活気に、どうしてもコロナ禍の彼らの苦境を思わずに居られなかったが)は面白かった。音楽の力もあって前半は何度も泣いた。でも、時間が経って冷静に考えるとこれで良かったのか?と。

センシティブな問題である上に、やはりこの手の話題は当事者の言葉が第一にあるべきであって、俺がいくら捻ったって正解が出るわけではない、どう扱ったって批判の出る題材である。ユートピア的ですらあるが男性カップルの人生を肯定的に捉えた「his」と比べても、一歩手前で止まってたかなと思う。