映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「ドライブ・マイ・カー」感想

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ドライブ・マイ・カー、観た。面白かった〜!!自分を演じてウソをつくこと。そして、他人を演じて自己を解放すること。妻を失った劇作家の孤独な魂は、人と人が交わる空間で起こる「奇跡」の果てに、救済される。演じることの事件性と、理解し得ない他者との断絶が交差し、一本の太い幹になっていく。

いつも役者って声だ、顔の良し悪しや特徴ではなく、声そのものに強度があるかどうかなのだ…と思っているので、セリフを「音」として捉える濱口竜介の理論には共感している。本作も亡き妻の「声」がカセットテープから流れるが、その妻の名前はずばり「音」である。あまりに素直な監督の宣言である。

作家の書いた「テキスト」に、役者の肉体から生まれる「声」が加わり、ドラマはサスペンスフルかつ生(ナマ)の魅力を帯びた「劇」として立ち現れる。同時に、この映画はコミュニケーションがいかに肉体的な営みであるかを示している。多言語劇に「手話」が登場するのは示唆的だ。

そして、このコロナ禍でなおさら痛感するのは「同じ空間を共有すること」には、単なるテキストや音声のやりとりを超えた、特別な意味があるということだ。濱口竜介の映画は、つねに演者のアンサンブルから生まれる「奇跡の瞬間」を待ち侘びている。その意味に於いて映画と演劇の違いは再現性の有無か。

たとえば、西島秀俊岡田将生の車中での会話、特に岡田将生の多層的な語りには、役者の内側から得体の知れない何かが湧き上がってくる瞬間に立ち会う興奮のようなものがあった。あれはまさしく「奇跡」と言いたいところだけれど、その特別な刹那を待つために濱口竜介は「本読み」を徹底するのだ。

演者が直面する、舞台の上で他人を演じることのいかがわしさ、テキストを血肉化して演技を構築する難しさは、理解し得ない他者とのコミュニケーションを図ることのもどかしさ、その分かり合えなさとどう向き合っていくのか…という普遍的な問いへと発展していく。その核にいるのが主人公の妻・音だ。

家福夫婦にとって演技/コミュニケーションを媒介する肉体がとても大切なのは、ファーストカットから示されていたと思う。セックスのあとに生み出される物語。夫婦の過去から逆算すれば、その共同作業は、ある種の「出産」のようにも見えてくる。テキストが声を受精し、ドラマとなって世に放たれる。

一方、捉え方によってはあの瞬間のコミュニケーションは正しい意味では成立しておらず、とても不健全だったと言うこともできる。これは二回目を観る機会があれば確認したいのだが、ふたりはほとんど目線を合わせて会話しない。騎乗位のときだけきちんと交わっている(ような気がする。自信がない解釈)

話は若干戻るが、映画の中心には「空間」というテーマが設定されている。ドラマは主に赤いサーブ900の車中と演劇のリハーサル室で展開される。特にクルマのなかは密閉空間で、他者の視線がない。そして興味深いのは、会話に「目線の交錯」がないことだ。みんなでフロントガラスを見つめている。

だから車中のようすは前方からひとつのフレームに収めるカットか、一人ひとりのショットをカットバックで繋いだものが採用される。みさきが運転席、家福が後部座席の場面がほとんどなので、それはある意味当然なのだけど、隣り合うふたりの切り返しが意識的に使われた場面が劇中ひとつだけある。

それが先にも挙げた家福(西島秀俊)と高槻(岡田将生)の会話のシーンだ。詳しくはふれないが、切り返しの演出をこの場面まで抑制して、ここで初めてじっくりふたりの目線の行き先と瞳の動きを見せるような人物の配置にしたのには、とても重要な意味があると思う。