映画狂凡人

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「クリード 炎の宿敵」感想:ロッキーにもクリードにもなれなかった男たちの輝き

こんにちは。じゅぺです。

今回は現在上映中の映画「クリード 炎の宿敵」の感想を書きたいと思います。

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クリード 炎の宿敵」は「ロッキー」シリーズの第8作目であり、新章「クリード」シリーズの第2作目でもあります。

前作「クリード チャンプを継ぐ男」では、アポロ・クリードの隠し子アドニスが恵まれた環境をすべて捨て、かつて父が立った舞台に上がるため、アポロの親友でありライバルのロッキーにボクシングの指導を依頼する…という話でした。物質的には豊かな生活を送りながら生きる手応えを得られず、ボクシングに活路を見出すアドニスの姿は、どん底のチンピラからアメリカン・ドリームを掴んだロッキーと対照的であると同時に、非常に現代的な問題を映し出していました。そして、ベルトをかけた戦いに挑むうちに、これまで人生の呪縛だった「クリード」という名前が、自らの存在を肯定する父の形見になっていく流れに「ロッキー」ファンとしては涙を流さざるを得ませんでした。コンランのパンチをもろに食らって意識が朦朧とする中、アポロの幻影が彼を奮い立たせる場面は最高に熱かったです。「証明してやる。俺が"過ち"ではないということを」と呟いてリングに立ち向かうアドニスは、「最後までリングにたち続けてゴロツキでないことを証明するんだ」と燃えていた「ロッキー」第1作のロッキーと重なります。また、これまで何度くじけそうになっても立ち上がってきたロッキーが癌にかかり、万事休すかと思われた時、アドニスの激励と戦いぶりを見ることによってふたたび人生に希望を持ち始めるところは、「ロッキー」シリーズの世代交代を強く印象付けました。

前置きが長くなりましたが「クリード」シリーズは「親子」と「戦う意味」が重要なテーマになっています。二世ボクサーであるアドニスアイデンティティに迫っていくと、どうしても「アポロ」の壁にぶち当たるのです。前作「クリード チャンプを継ぐ男」では、自らこれまで隠してきた「クリード」の姓を名乗り、避け続けてきた父の影と正面から向き合いました。アポロという伝説的な存在に引け目を感じ、満ち足りない感情を抱いていたアドニスにとって、ボクシングに向き合うことは、自らのアイデンティティを確かめる儀式だったのです。おそらく今は亡き父に認めてもらいたい、父を超えて偉大なボクサーになりたい、という気持ちもあったはずです。

ところが、本作「クリード 炎の宿敵」のアドニスはすでにその目標を達成した状態です。試合は判定負けだったものの、コンランの引退によってヘビー級チャンピオンの称号を手に入れたアドニスは「追われる側」になります。彼にとって「戦う意味」は大きく変質していました。挑戦してから敵を迎え撃つ、「守り」の姿勢です。愛するビアンカと結婚し、地元のフィラデルフィアを離れ、もうすぐ子どもも産まれる。幸せな生活を続けるために、彼はリングに立ちます。もちろんそれはとても大事なことです。しかし、そこにはもう「さらに上へ」を目指す熱い気持ちも向上心もありません。

そんな彼に戦いを挑むのが、ドラゴ親子です。イワン・ドラゴは、ロッキーとの戦いに敗れた結果、国中の敬意を失い、妻を失うだけでなく、祖国ロシアも追われる羽目になりました。イワンの息子・ヴィクターも、尊敬する父をどん底に追いやったロッキーやアポロに強い恨みを抱いています。「こんなはずではなかった」という気持ちが、彼らを突き動かしているのです。そして、ドラゴ親子はやり場のない怒りや復讐心を、アドニスに向け、対ロッキー戦の雪辱を晴らすことを誓います。

当然、アドニスはそんな彼らの勢いに勝てるはずもなく、散々リングの上でいたぶられた挙句、ノックアウトされます。ヴィクターの反則にも助けられ、ヘビー級チャンピオンの座は守りますが、アドニスは心身に大きなダメージを負い、戦闘意欲を完全に失ってしまうのです。

ここまでくるとわかるんですが、この映画の真の主人公はドラゴ親子なんですね。アドニスと比べてもはっきり「戦う意味」を持っています。「クリード 炎の宿敵」は、「ロッキー」にも「クリード」にもなれなかった男たちの悲哀に満ちた復讐の物語でもあるのです。どこまでも満たされない気持ちを抱え、彼らは何十年も地べたを這いずり回って生きてきました。ロッキーは窮地に立たされるたびに、愛する家族やフィラデルフィアの仲間たちに励まされ、不死鳥のごとく蘇ってきました。でも、現実はなかなかそうもいかない。「敗者」の烙印を押され、ずっと「あの日、あの時」で時間が止まったまま、怒りと恨みと復讐心を原動力に生きていく人だっているのです。そんなドラゴ親子がチャンピオンベルトと妻であり母のロドミラの愛を夢見る姿に、僕は胸を締め付けられました。

一方、アドニスは大きな挫折を経験したのち、ヴィクター・ドラゴとの再戦に挑みます。自らのチャンピオンの地位を守るため、半ば強制的に引きずり出された形ではありますが、ロッキーと「痛みに耐える」訓練を積むうちに、彼は自覚します。「戦う意味」は今も変わらない。それは、アドニスクリードという男の存在を証明するためであると。しかし、リングの上に立つのは、自分が偉大なボクサー・アポロを父に持つからでも、天国の父に自分を認めさせないと足元が揺らぐからでもありません。アドニスは「戦い続ける自分」こそが本当の自分なのだと気づきます。ボクシングを辞めたら、次々と襲いかかる敵や困難に向き合うことを諦めたら、それはもう自分ではない。ここにきて初めて彼は「アポロ・クリード」の呪いから解放され、自らのアイデンティティを再定義します。「アドニス・"クリード"・ジョンソン」になるのです。

対するドラゴ親子は、未だに30年前の戦いで時が止まったままでした。アドニスvsヴィクターのラストマッチは見ていて辛かったです。アドニスは、ドラゴ親子の負のエネルギーを凌駕する、圧倒的な技術と意志でヴィクターを圧倒します。一方のヴィクターも、観客席にいる母の気持ちを繋ぎ止めるため、ここまで背中を押してくれた父を失望させないために、全身の力を振り絞って戦います。お互いフラフラになりながらもリングの上で殴り合いを続ける様は、まさしく「死闘」としか形容し得ないものでした。

この試合の決着は意外なものでした。イワン・ドラゴが、限界寸前の息子に見かねてリングにタオルを投げるのです。あの傲慢で勝気なイワンがギッブアップするとは。非常に大きな驚きでした。しかし、「負け」を認めることによって初めてドラゴ親子は「負け」から解放されたのです。ある意味、これまでドラゴ親子は、ロッキーに負けたあの日から「負け」を絶対に避けるべきものとして忌み嫌ってきました。だって、あの時ロッキーに勝ってれば、いまごろ国民の英雄としてバラ色の人生を送っていたでしょうから(少なくとも親子は祖国を追われることなく、家族円満だったと思います)。

「ロッキー」シリーズが繰り返し問うてきたのは、本当に「勝ち/負け」が絶対なのかということ。そして、いちばん大切にすべきなのは「最後まで自分と向き合い、戦い続けること」ということです。試合終了のゴングが鳴るまで、痛みに耐えて、人生のリングに立ち続ける。そうすれば見えてくる景色がある。これこそが「ロッキー」シリーズに通底するメッセージだと思います。

しかし、それはいつまでも過去にこだわり続けるということではありません。ドラゴ親子は、人生のターニングポイントになった敗戦を引きずっていました。ロッキーはリングの上でアポロが瀕死の重傷を負ってもタオルを投げませんでした。それはアポロ本人が望んだことでもあるから、最悪の結果になってしまったにせよ、ロッキーを責めることはできません。そういう生き方もありだと思います。でも、イワンは同じ轍を踏まなかった。彼は一度した失敗は二度と取り返せないことを知り、「諦める」ことで人生を再スタートする切符を手に入れました。それもまた正解なのです。見苦しくもがくことも大事だけど、その上で引き際を見極めることだって、同じぐらい大事です。イワンとヴィクターはこれ以上ないぐらい頑張ったのだから、こんどは別のリングで戦えばいいのです。

アドニスとヴィクターの戦いは、ロッキーの人生にも影響を及ぼします。この試合を通して、アドニスはアポロ、ヴィクターはイワンという偉大な父の呪縛から解放され、本当の意味での自分の人生を歩み始めます。ロッキーはアドニスの勝利に歓喜するリングを眺めながら、自分の出番が終わったことを悟ります。もはや「ロッキー」の世代の物語は幕を閉じたのです。彼も「アポロ」と「イワン」に束縛された人生を送っていました。アポロを救えなかったトラウマが、いつまでも体にまとわりついて離れなかったんですね。でも、アドニスは一人で旅立ちました。だから、こんどはロッキーが再び自分の人生に向き合う番なのです。これで「ロッキー」シリーズも一つの節目を迎えたと言えるでしょう。

「タオルを投げる」というイワン・ドラゴの決断は、ロッキーやクリード親子とは別の方向を向いていたと思います。彼らはどこまでもロッキーのカウンターであり、映し鏡なのです。そしてそこにこそ彼らの輝きがあると思いました。

「リトル・フォレスト 冬/春」感想:いち子を縛る過去と地元

こんにちは。じゅぺです。

今回は「リトル・フォレスト 冬/秋」について。

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「リトル・フォレスト 冬/春」は、田舎で自給自足生活をする少女・いち子の生活を描く作品です。

前回「夏/秋」のレビューで、あえて起伏を排した平坦なストーリー構成になっていることに触れましたが、後半部分にあたる「冬/春」では、おそらく観客みんなが疑問に思ったであろう、なぜ年頃の女の子が何もない田舎で一人で暮らしを選んだのか?という問いへの解が与えられます。ここにひとつのドラマが生まれ、物語は収束へと向かっていきます。

では、なぜいち子はこの家に暮らしているのかというと、それは母親の昔ふたりで生活していた場所だからなのです。いち子の自然を食べて生きる日常も、すべて母親から教えてもらったもの。おいしい料理の作り方も、厳しい自然の中でのやりくりの仕方も、みんな母の知恵なのでした。しかし、そんな母親はある日突然いち子だけを残して家を去ります。言ってしまえば、娘を捨てたんですね。

だから、いち子はこの家に暮らしているのです。「もしかしたら母親がひょっこり帰ってくるかも」と淡い期待を抱きながら。きっとこの家の温もりや匂い、毎日の生活の中に母親の影を見出し、孤独を慰めてきたのだろうと思います。

しかし、彼女の居場所はまだ「ここ」にはありません。彼女の心は常に「母」と母と共に過ごした「過去」に囚われています。この村を離れようと思えば、いつでも都会に出ることはできたはずです。それができないのは、やはり母親に捨てられたという現実をまだ受け止めきれていないからであり、またそんな想いを立ち去る覚悟ができていないことの証左でもあります。彼女自身はそのことにも薄々気づいていて、隠れて自己嫌悪にも陥っている。この家は、母親に大事に育てられた幸せな過去と、そんな思い出を全否定する忌まわしい過去と、その両方を受け止めきれず、現実逃避に終始している現在の自分の弱さが、すべて詰まっている空間なのです。だから彼女は孤独なのです。黙々と作業をこなし、自分で育てた食物をもしゃもしゃと噛む姿は、どこか寂しげに映ります。彼女は田舎暮らしで悠々自適に見えますが、じつは全くそうではない。本当の意味で自由になるには、むしろこの家を飛び出さなければならないのです。

のんびりとした映画だが、最後に全体像がわかる構造になっています。広い意味で言えば、子の親離れ、ひとり立ちの作品とも言えるでしょう。僕は都市郊外に住んでいるので、この感覚は微妙に掴みきれていないのですが、非常にすばらしい「田舎映画」でもあると思います。「地元」というのは不思議な存在で、生まれ育った場所として無条件に自分を包み込んでくれる「家」のような存在であると同時に、外の世界へ羽ばたく自分を縛る呪いにもなり得ます。この相反する二つの顔にどう向き合うか。「夜明け告げるルーのうた」や「レディ・バード」も同様でしたが、結局は、大人になるためには一度地元を離れなければなりません。そして「地元」は「帰る場所」にするのです。たとえば日々に疲れたり、自分を見失った時に帰る場所。この複雑で愛憎入り混じった「地元」に対する感情の機微が、「リトル・フォレスト」の魅力なのかなと思います。

「リトル・フォレスト 夏/秋」感想:おしゃれでリッチな田舎暮らしの理想郷

こんにちは。じゅぺです。

今回は「リトル・フォレスト 夏/秋」について。

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「リトル・フォレスト 夏/秋」は、東北のとある田舎町・小森に暮らすいち子の日常を描く作品です。春夏秋冬でそれぞれ単独の映画になっています。劇場公開時には「夏/秋」と「冬/春」にまとめて上映されたそうなので、レビューも同様の形式としました。

主演は橋本愛です。ストーリーにはあまり起伏がなく、淡々といちこの自給自足生活がスケッチされます。自然と共に暮らす、というよりは、自然に合わせて暮らす、主人公・いち子の気取らない毎日の過ごし方に憧れますね。ストーブで焼いたパンとか、自家製ウスターソースとか、川魚の塩焼きとか、とにかくご飯が美味しそう。映像もさることながら、音がいいんですよね。魚を火に炙ったときのぱちぱちっと脂や皮が弾ける音なんて、思わずつばを飲んでしまいました。ほんとうに「美味しい」映画です。

ある意味でこの映画における田舎暮らしは理想化されているようにも思います。雑誌で見かける「おしゃれでリッチな自然派生活」といったところ。いち子の住む村は、四季を楽しむ理想郷であり、都会人の願望をパッケージした空想の世界であると言えるかもしれません。僕自身こういう農村に住んだことはないので、机上の空論といえばそうなのですが、少なくとも、この映画は田舎の綺麗な部分しか見せてくれていないのはたしかです。主眼が田舎生活のリアルを描くことにないだろうし、突っ込むだけ野暮な気はします。が、人によっては気になるかもしれませんね。

正直、今回の映画はあまりレビューできる箇所がありません。少なくとも僕の文章力と記憶力(このブログの記事は大抵見て1ヶ月ぐらい寝かせてから書いてます)では、書ける内容がないです笑 田舎暮らしの橋本愛の良質なPVといったところでしょうか。とにかく彼女の自然に向き合うときの所作や表情、その動きの変化を見て、楽しんでもらわないことには、この映画の良さってわからないのではないかと思います。それぐらい「ああ、橋本愛っていいな」としんみり思わされる映画です。

【美術展】「ムンク展」に行ってきました

こんにちは。じゅぺです。

先日、上野の東京都美術館で「ムンク展 共鳴する魂の叫び」に行ってきました。たいへん話題になっている展覧会で、僕が行った日も入場するだけで30分待ちでした。時間帯によっては90分待ちの時もあったそうです。すごい人気ですよね。

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今回の展覧会は、もちろん「叫び」です。

こちらは「生命のフリーズ」という一連の作品のひとつに位置付けられておりまして、あの独特の血を指でなぞったような渦巻く夕日を背景にした作品は他にもあるのです。僕は今回の展覧会で初めてそれを知りました。メインディッシュとあってたくさんの人が絵の前に集まり、熱心に鑑賞していました。

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(こちらの連作は展示会にあったものとは別バージョンです)

でも、僕が感動したのは「叫び」よりも、上の写真の真ん中にある「不安」でした。「叫び」で描かれている男の人って、表情もデフォルメが効いているし、結構かわいいじゃないですか。それがいいんですけど、期待していた禍々しさとはちょっと違ったんですね。

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一方、「不安」の橋の上に並ぶ男女は、のっぺりと生気を失ったような表情をしています。さらに、木版の荒削りな凹凸が質感として残っているから、その顔がまるで仮面のように見えてくるのです。不気味さではダントツでしたね。

他にもいくつかお気に入りの絵を見つけました。

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「ブローチ、エヴァ・ムドッチ」は、この憂いを帯びた妖艶な目つきに惹かれました。少し厚めで眠たそうなまぶた、まっすぐだけど頼りなげな鼻筋、あまり多くを語りそうにはない薄い唇、そして、彼女の存在を誇示するかのように大きく広がる髪の毛。思わず絵の前で足を止めてしまいました。この絵には魔力があると思います。

 

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「浜辺にいる二人の女」は、フィヨルドのウネウネした海岸の形(「叫び」のモチーフにもなっていますね)がとても面白かったです。手前に転がってる岩も丸くてかわいいですね。水平線の向こうに浮かぶ月に、なんとも言えない不安を感じました。ムンクは繰り返し「白夜」をモチーフにした絵を描いています。僕は北欧に行ったことがないのでわかりませんが、こうやって見ると非常に不思議な感覚になりますね。地域性があって興味深いです。

 

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「渚の男たち」も面白い絵でした。彼らは果てしなく続くノルウェーの海の向こうに何を見るのでしょう。人生に思い悩んでいるんでしょうか。それとも恋煩いでしょうか。フェリーニの「青春群像」に似たようなショットがあることを思い出します。メランコリックな青年と浜辺の組み合わせは、繰り返し利用されてきたモチーフなのかもしれませんね。

 

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「接吻」もいくつか置いてありましたが、それぞれに異なるアプローチをしていて面白かったです。接吻を交わし、境界線を失っていく男女に強い「愛」を感じます。一体になっていく喜びや恍惚がよく表れていると思います。抽象画にも近い表現です。これほどまでにストレートかつロマンチックに「愛」を表現するなんて!とても気に入りました。あと、絡み合う男女のシルエットは、同世代の画家クリムトの作品にとても似ています。どのような関係があってムンククリムトが同じような絵を描いているのか、とても気になります。

 

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ここまでは屋外を題材にした開放的な絵が多かったのですが、娼館を舞台にした非常に閉鎖的で息苦しい絵もムンクは描いています。こちらは「すすり泣く裸婦」です。無造作に投げられた脚と乱れた髪の毛に、彼女の負った心の傷と絶望の深さを感じ取ることができます。この他にも娼婦をモデルにした作品が数点ありましたが、他と比べても圧倒的に陰鬱で、強い負の引力を感じました。狭っ苦しい部屋の中で、自由を奪われた人。鑑賞しているだけで息が詰まりそうになりました。

 

最後に置いてあったのが「自画像、時計とベッドの間」です。ここまであまり触れてきませんでしたが、ムンクは波乱万丈の人生を歩んでいます。幼い頃には姉を亡くしていますし、恋人の口論の最中に銃が暴発し、指の一部を失っています。世間の名声が高まる中で、精神病院に入っていた時期もありました。これらの出来事は彼の作品に大きな影響を与えているようです。

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この作品は「子どもたち」と呼んだお気に入りの作品を背景に、ポツンと佇むムンクが描かれています。死やベッドは否応なく「死」を連想させますが、さまざまな苦難を乗り越え、自らの壮大な物語に幕を閉じようとするムンクの姿に、僕は彼なりの誇りを感じ取りました。

この世を去った後も、ノルウェーに限らず、世界中で愛されているムンクの作品たち。ぼくが生まれるずっと前に、遠い海の向こうで、白夜の月を眺めながら描かれた作品をいまここで鑑賞しているということが、とても不思議に感じられました。人類文明が続く限り、ムンクの作品は世界中の人びとに、受け継がれ、たくさんの感動を与えていくことでしょう。大満足の展覧会でした。

「クルーレス」感想:アリシア・シルヴァーストーンの輝き

こんにちは。じゅぺです。

今回は「クルーレス」について。

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クルーレスは1995年公開の青春映画です。ダサい(=クルーレス)ことが大嫌いで、学校のイケてない人をイメージチェンジすることに精を出している美少女・シェール。学年一の人気者の彼女は、じつはまだ処女でした。そんな彼女が始めてを捧げてもいい「本当に愛している人」を見つけるまでを描くお話になっています。

この頃の青春映画でいうと「待ちきれなくて…」や「ミーン・ガールズ」あたりが有名ですね。本作は、主演のアリシア・シルヴァーストーンの自信に満ちあふれたキュートな笑顔が最大の魅力だと思っています。映画ではこれ以外に目立った活躍をしていないのが残念ですが、時々ちょっぴりいたずらっぽい表情を見せるあの上品な顔立ちは、唯一無二だと思います。彼女がスクリーンの真ん中にいるだけで映画が成立してしまうぐらい、圧倒的な輝きを放っていました。

お話もとてもほのぼのしています。シェールにちょっとした試練は訪れるけど、学園モノにありがちなドロドロした人間関係やイヤな先生は一切出てこないんですよね。悪意のある人間が出てきません。ほかの映画だったら紛争の火種になりそうな事件はちょくちょく起こるのですが、シェールがすべて軽く受け流します笑

彼女はお嬢様でちょっぴりズレてるけど、根はとてもいい子なのです。そしていつもハッピーなことを考えているんですね。ある意味、金持ちの子どもらしい朗らかさがあるというか。一応全部自分のために行動しているのですが、それらもすべて「恵まれた私が手を挙げてやらなくては!」みたいな使命感に基づくものだったりします笑 そういうことなのか?と突っ込みたくもなりますが、自分なりに考えて行動しているのも素敵だしキュートですね。癒されます。

性格が悪くない学園のマドンナって、青春映画にしては珍しいかもしれません。いつもだいたい悪役ですから。若いころのポール・ラッドが見られたり、こじんまりとしていますが、満足感の高い映画でした。

「ペット」感想:動物目線で世界を切り取る

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ペット」について。

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「ペット」はニューヨークのアパートで暮らすペットたちの大冒険を描くアニメーション映画です。制作スタジオは「怪盗グルー」シリーズでおなじみのイルミネーション・スタジオ。フランスらしいエスプリの効いたブラックな笑いと、都会的でポップな空気感がとってもキュートな作品です。

人間たちの見ていないところでなにが起こっているのかというテーマは「トイ・ストーリー」的です。「トイ・ストーリー」ならオモチャ目線であったように、「ペット」なら動物目線で人間の世界をとらえ、そのおかしさと愛おしさを教えてくれます。違う視点から世界を切り取り直し、再構築していく試みは、メインターゲットである子どもだけでなく、大人でもワクワクさせられます。マンハッタンの摩天楼をアスレチックのように駆け回るシークエンスが特に楽しかったですね。高低差と奥行きを意識した画面の動き、アニメならではの長回しも最高でした。デフォルメの効いた(そして時に悪意も感じる笑)キャラクターたちも可愛らしく、一見特徴はないんだけど、ぬいぐるみに欲しくなるような親しみやすさがあります。なんかこう、ぎゅーっと抱きしめたくなりますね。

しかし、この映画の本当の面白さは円環構造にあると思います。無数にきらめく家々の窓の明かりに、それぞれの「いってきます」と「ただいま」の物語があるのです。平和で愉快な日常の1ページをめくる楽しさ。映画を見終わって、現実に戻ったとき、少しだけ景色が明るく見えてきます。

「帰る場所がある」ってなんて素晴らしいことなんだろうと思わされました。人間のパートナーとして、世界一の大都市に暮らす住民の一人(?)として、彼らは生きているのです。最初から最後までマックスとデューク、それから彼らを追いかけるキャラたちが貫くのは「元の場所に戻りたい」という想いであり、ほとんど登場しないにもかかわらず、つねに意識されるのは「家」の景色と「ご主人様の顔」なんですね。見る人それぞれがマックスやデュークに自分を当てはめて大切な誰かを想ってみたり、家で待ってくれている家族の姿を想像してみたり。帰るべきは「家」であり、淀みなく流れていく平穏な毎日なのだと、しんみりした気分になりました。

これは映画館で観るべき作品だったなあって、悔しくなりました。映画館という外界から区切られたハコから「日常」へと帰っていく。さあおうち帰ってなにしようって。そういう体験は家のテレビで見ても得られないですから。つくづく映画って映画館で見るべきものだなあと思います。

「ハード・コア」感想:アウトローたちの居場所

こんにちは、じゅぺです。

今回は「ハードコア」について。

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「ハード・コア」は、行くあてもなく埋蔵金探しで日銭を稼ぐ右近と牛山が、不思議なロボットに出会うダメ男たちのファンタジーです。非常に独特な世界観の作品になっていて、このノリについていけないと相当厳しいだろうなと思いました。僕も気持ちが乗るまでは、なんだか妙な映画を見にきてしまったなと思っていました。

作品全体としては、おかしな事件が次々と起こるわりに、物語の歩み自体は遅く、かなりゆるっとした時間感覚です。山下敦弘監督の作品は「リンダ・リンダ・リンダ」や「もらとりあむタマ子」など、緩やかな時間の流れの中で描かれる日常とオフビートな笑いが持ち味だと思っているのですが、「ハード・コア」はその部分のクセがさらに強くなっている印象です。

で、どうしてこうなるのかというと、もちろん地下から高性能ロボットのロボ男が発見されるという設定の荒唐無稽さもあるのですが、なにより右近と牛山の変人っぷりが理由ではないでしょうか。右近は気に入らない人がいればぶん殴る。牛山は何もできず悲しそうな顔をする。ロボ男はそんな二人を守る。傍らで見守る左近は彼らのカウンターであると同時に、自分の生き方に疑問を感じていなくもない。延々掘っても見つからない埋蔵金みたいに「いつかきっと」と思いながら毎日を送る苦しさに押しつぶされそうにながら、彼らは生きています。

彼らは自分の気持ちに素直すぎるのです。すごく純粋な感性の持ち主だと思います。だからこそ、と言うべきか、あまり社会に適応するのは上手ではないようで、あと一歩のところでチャンスを逃がしてしまう。せっかく埋蔵金を発掘しても、お世話になった人への柄と感謝の気持ちがあるから、自分だけ幸せになろうって思えないんですよね。この間の悪さは「男はつらいよ」の寅さんを思い出します。友だちにならないかというと微妙なラインの変人だけど、核にあるまっすぐな気持ち、世間に馴染めない純粋さに、スレた僕たちはある種の憧れを抱くのです。ああやって生きられたら、幸せだろうなって。彼らは彼らの悩みや苦しみがあるんですけどね。「寅さん・ミーツ・ロボ男」な作品と言ってもいいかもしれません。

また、右近が叫ぶ「間違ってることを間違ってると言ってなにが悪いんだ」との言葉は、声を上げれば叩かれる昨今の風潮への抵抗にも取れます。毎日いろんなことに我慢を覚えてモヤモヤしながらも、カウンター側になる勇気もなく、結局我慢してしまう僕からすると、右近や牛山のアウトローな生き方は、ちょっぴりカッコよく見えます。いいじゃないですか、どこにあるかも知らない島で原始人生活。でも、彼らが救われる場所は、この日本にはなかったのかなとも思ってしまいますね。あのままみんなで埋蔵金生活をしても、彼らは幸せになれなかったのかもなあって。清々しく多幸感を覚えると同時に、切なさを漂う作品でした。