映画狂凡人

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」感想:魔法なんていらない

こんにちは。じゅぺです。

今回は「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」について。

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志乃ちゃんは自分の名前が言えない」は押見修造による同名漫画の実写化作品です。とてもすばらしい作品でした。鑑賞して1日経ってもいまだに志乃ちゃんのことが頭の中をぐるぐるしています。

志乃ちゃんは自分の名前が言えない」って不思議なタイトルですよね。主人公の志乃ちゃんは新生活の環境に適応できず、吃音症になってしまいます。自己紹介でも緊張と恐怖で自分の名前がはっきり言えない。そんな彼女を見つめるクラスメイトの刺すように冷たい目線がさらに志乃ちゃんの心を傷つけ、彼女を殻の奥へ、奥へと追いやっていきます。そして、出だしでつまずいてしまった志乃ちゃんは、このあとずっと自分を素直に出せなくなってしまいます。彼女が苦しそうに吐き出す、声にならない心の叫びが痛々しく、そして切ないです。

しかし、そんな辛い学校生活を忘れさせてくれるのが加代との時間。喉をめいいっぱい開いて、抑え込んでいた気持ちを爆発させるかのように力強く透き通った声で歌をうたう。歌をうたっているときの志乃ちゃんの顔は明るくて、とっても可愛い。ふたりでバンドを練習する時間は、志乃ちゃんにとってかけがえのない大切な時間であり、希望でした。そして何より、どのクラスメイトにも教えていない趣味や特技をお互い知っているということこそ、志乃ちゃんにとってこれ以上ない喜びだったのではないでしょうか。秘密を共有するほど深い仲、強い絆で結ばれているのだという実感が、彼女に自信を与えていたはずです。しかし、そんなしあわせなひと時でも、殻に閉じこもっているときの志乃ちゃんの顔がふと思い出され、きっとこのしあわせな時間が永遠に続くことはないだろうという予感がしてしまうのです。

このあとの展開は、正直好みが分かれるところかと思います。志乃ちゃんと加代のあいだに、ひどい言い方をすれば、「邪魔者」が現れるのです。二人だけの空間に割り込んできた異質物。ここで加代が菊池をあっさり受け入れたことに志乃ちゃんはショックを受けます。だって、二人の間でしか成立しないはずの「秘密」があっさり裏切られてしまうのですから。

このあと再び殻の奥に閉じこもってしまった志乃ちゃん。一方の加代はなんど志乃ちゃんに拒絶されても諦めず、文化祭当日、ひとりでステージに立ち、必死に彼女への想いを歌に乗せて叫びます。「魔法はいらない」と。

志乃ちゃんは名前が言えない、加代は歌が上手くうたえない。菊池は空気が読めない。誰だって足りない自分を嘆き、恨み、コンプレックスに押しつぶされそうになっている。苦しみの大小は比較できないけど、みんな何かしら「できない」人のはずです。志乃ちゃんも加代もあれだけ仲がよかったのに、どうしてすれ違ってしまったのでしょうか。けっきょく、志乃ちゃんは自分で自分を呪ってしまっていたのだと思います。それがいいとか悪いとかではありません。ただ、彼女は脆かった、そして、登校初日に心が折れてしまった。志乃ちゃんに加代や菊池が差し伸べた手をつかむ勇気があれば。そう思わなくもないけど、こればっかりは仕方がないことです。ボタンの掛け違いが起きてしまったというだけのことだったのだと思います。

加代の歌で吹っ切れたように志乃ちゃんはため込んでいたすべてを吐き出します。周囲の人間の無理解への苛立ち、うまく言葉が紡げずどんどん置いていかれる焦り、本当はこんなはずじゃなかったのにバカにした目で見られる悔しさや恥ずかしさ、そんな状況から抜け出せないもどかしさ、大切な友人を傷つけてしまった愚かで弱い自分への怒り…一度吐き出し始めたら止まらない。これまで彼女がいかに我慢し、耐えてきたのか。その壮絶な葛藤を想い、僕も思わず泣きました。歪ながら強烈なクライマックスです。

このときの志乃ちゃんが号泣しながら鼻水を垂らすのですが、なぜだかこれが全然汚くなくて、むしろ顔中から水が吹き出しても気にならないぐらい必死に叫んでいるのだと、その美しさに恍惚としてしまいました。志乃ちゃんが鼻水を垂らすのはこれが2回目で、1回目は中学の同級生にいじめられている加代を庇ったときにも垂らしていました。こちらもやはり純粋で汚れがない鼻水なんですよ。あまり鼻水の話ばかりすると変態っぽいですが、現役モデルの南沙良が見た目も気にせず全力で演技しているという点を含めて、すっごい印象的でした。

そしてラストカット。これまで空気のように扱われてきた教室で、前の席の女の子が志乃ちゃんに筆記具を貸します。彼女はぎこちない笑みで、まだ完璧に直ったとはいかないまでも、あのきれいな声でうれしそうに「ありがとう」と言うのです。きっとこのあと彼女は、徐々に自分の弱さをゆっくりと克服していくのでしょう。加代や菊池とはどうなるんだろうな。でも、彼らが仲直りするのにもそんなに時間はかからないはずです。だってもう志乃ちゃんに「魔法はいらない」のですから。

 

 

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」感想:あの頃私たちは世界の中心だった

こんにちは。じゅぺです。

今回は「SUNNY 強い気持ち・強い愛」について。

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SUNNY 強い気持ち・強い愛」は、韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」を監督・大根仁、音楽・小室哲哉のタッグでリメイクした作品です。原作「サニー」は、光州事件を中心に、80年代の韓国の政治状況を色濃く反映させており、ナミたちの青春と韓国の民主化がオーバーラップする仕組みになっています。

一方、大根版「SUNNY」は、時代を90年代に移し、当時のポップミュージックとコギャル文化を奈美たちの青春の背景に描きこんでいます。これはとてもいい設定変更だと思います。安室奈美恵が引退し、平成も終わるこの2018年に、これまでの20年間を振り返るという試みは、ありそうでなかった試みなのではないでしょうか。

幸せな家庭を築き、平穏な毎日を送る奈美。しかし、どこかにまた足りなさを感じている。そんな彼女が末期ガンになった「SUNNY」のメンバー・芹香と偶然再会し、疎遠になってしまったメンバーたちを探し始める…というお話です。現代パートと過去パートが交互に描かれるわけですが、その落差が面白く、そして苦しいのです。歩道を横並びで占領し、若さに任せて好き勝手やっていたあの頃も遠い昔。あんなにもまっすぐ明るい未来を信じていたのに、いまはそれぞれに悩みや苦しみを抱えていて、ふとした瞬間に愚痴をこぼしてしまう。17歳の彼女たちは間違いなく「世界の中心」だったのです。奈美の漏らした「なんであんなに笑ってたんだろう。」が何とも言えず切ない。

でも、けっして彼女たちはノスタルジーに浸るだけではありません。かつての自分にパワーをもらい、ワンスアゲインを誓うんですよね。子どもの頃の自分に負けてられないよと。それだけ「SUNNY」で一緒にいた時間は楽しくて、濃厚で、きっといつまでも彼女たちの心を支え、輝かせてくれるのでしょう。そして、青春は今からでも始められる。芹香のお葬式で踊るクライマックスは、そんな彼女たちの「これから」を象徴するシーンになっていて、原作を知っていても胸が熱くなりました。もうみんないい年をしたおばさんだし、場所はお葬式会場で、着ているのは真っ黒な喪服だけど、これ以上ない笑顔ではじけている。 ちょっとダサくて、カッコいい。「SUNNY」は「笑えるけど泣ける」場面がたくさんあっていいんですよね。娘の制服とルーズソックスではしゃぐ奈美、屋台で杯を酌み交わし本気で泣き合う奈美と奈々。そして「強い気持ち・強い愛」を踊るクライマックス。若さと老い、人生の悲哀を感じます。

本当のところを言うと、僕は原作「サニー」の方が好きです。大根監督の演出が滑っている箇所もありました。どうしてもラストはボニーMの「Sunny」のちょっと古臭くてダンサブルな曲調の方が、おばさんたちのダンスにははまっている気がしますし。ああ、でも、奈々演じる池田エライザのクールビューティー、三浦春馬のいかにも「当時はカッコよかったんだろうな」と思わせるあの微妙なダサさは、原作「サニー」とは違う味わいとして強く印象に残りました。どうやらベトナム版「サニー」もあるらしいので、いずれ見る機会があればチェックしてみたいです。

「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」:夭折の天才の大傑作

こんにちは。じゅぺです。

今回は「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」について。

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丹下左膳餘話 百萬兩の壺」は1935年に公開の人情喜劇です。監督は山中貞雄日中戦争に派兵されて遠い海の向こうで病死してしまった夭折の天才監督です。全編現存するのわずか3本ですが、本作はそのうちの1本。山中は26歳でこれを作ったというのだから、そのセンスに驚嘆してしまいます。

人情喜劇とあって、本作の魅力はやはり左膳たちのキャラクターです。やる気ないけどいざという時は決める左膳、愛嬌たっぷりの孤児、抜けっぷりが憎めない道場主。ユーモラスな愛に溢れています。みんな自分に甘いし、他人にも甘い。

お宝の奪い合いのわりにゆるーく弛緩した雰囲気ですが、天丼ネタも含めて編集のテンポとセンスが光ります。さりげない伏線の回収と緩急の効いた語り口。83年前にこんな素晴らしい邦画があったなぁと感動しました。発見の大傑作です。

「ポッピンQ」:これは誰に向けて作っているのだろう?

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ポッピンQ」について。

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「ポッピンQ」は東映アニメーション60周年を記念して制作された作品です。残念ながら批評的にも興行的にも大失敗しました。

はっきりいてあまりおもしろい作品ではありませんでした。世界の危機、ダンス、卒業、可愛らしいマスコットキャラクター…どこかで見たような設定ばかりです。たびたび映画やドラマの劇中で幼児が見ている「プリキュアっぽい少女アニメ」っぽい合成感と嘘臭さがあります。一つ一つの要素が悪いとは思いません。それぞれがまとまることなく、表層的な「それっぽさ」にしかなっていないのが問題です。軸がないんですよね。インタビュー等をあさってみると、このカオスはある程度狙って作られたもののようですが、僕にはあまり響きませんでした。本作の評判の悪さをみると、それほど作品の面白さには貢献していないように思えます。

なにより、誰にむけて作ったかわからない内容になっているのが残念です。テーマも結論も全て言葉で説明してしまうし、マスコットキャラクターのデザインは子どもっぽいしで、主人公たちと同じ中学生の層に向けた作品にも思えない。かといって幼児が見るかというと、たぶん彼らはプリキュアの方に興味を持つでしょう。「ポッピンQ」という不思議なタイトルも、今回のトップ画に選んだキービジュアルも、好奇心をくすぐられるし素晴らしいと思うのですが、残念ながら中身はついてこなかったという印象です。

「君の膵臓をたべたい」感想:実写版とアニメ版の桜良の解釈の違いについて

こんにちは。じゅぺです。

今回は「君の膵臓をたべたい」について。

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「君の膵臓をたべたい」は住野よるの小説を原作にしたアニメーション作品です。昨年浜辺美波北村匠海を主演に迎えた実写化作品が公開されました。これがとってもすばらしい作品でしたね。浜辺美波という女優の名前を世に知らしめた傑作だと思います。実写版は原作にはない大人時代のパートを加え、「僕」の成長をすこし違った目線から描いていましたが、アニメ版は原作をなぞって高校時代のパートのみで進行しています。こちらもアニメというメディアの特性を生かした良い作品だったと思います。実写版「君の膵臓をたべたい」のファンなので若干比較の目線が入ってしまいますが、以下、感想を述べてみようと思います。

難病という理不尽に向き合う桜良は「運命」を信じません。そんなことあってたまるかという想いでしょう。人生まだ何も始まってないのに、人生の方向性をすべて決められてしまっているんですから。死と向き合う桜良は、人生は全て「選択」の上に成り立っているのだと語ります。彼女の紡ぎだす言葉の切実さと、彼女と向き合う僕の関係は実写版より掘り下げられているんじゃないでしょうか。大人時代のパートがないので単純に尺の問題もありますが、なにより、桜良のキャラクターの解釈の違いだと思っています。浜辺美波の演じる桜良は控えめの性格で、難病の苦しみを抱えながら、その辛さを忘れるために空元気を出している、という印象でした。その無理して平気そうにふるまっている姿が痛々しくもあり、また、その健気さに心打たれるのでした。一方、アニメ版のLynnの演じる桜良のキャラクター造形はというと、どちらかというと初めから元気な性格で「陽」の面が強いですね。初めから明るさを前面に出しているから、むしろ、彼女が寂しそうにしていたり、孤独をかみしめている姿にギャップを感じて、胸がギュッと締め付けられる思いでした。実写版もアニメ版も死の恐怖と向き合いながら毎日を大切に生きている桜良に感動するわけですが、実写版は彼女の元気な姿に、アニメ版は元気がない姿に、彼女の孤独を感じるという、対照的なキャラクター描写になっていたのではないかと思います。このアプローチの違いはたいへん興味深いですね。

海に面した坂道の多い街というロケーションが良かった。これは実写版にはないポイントですよね。丘の上で二人のシチュエーションもロマンチックでした。一瞬一瞬が儚く思い出されます。花火のシーンは誰もがふれると思いますが、やはりいいシーンでした。青春に花火大会と夏祭りと文化祭は必須ですよね。あまりそういう経験がない僕でもなぜか「懐かしい」と思えてしまいますから。

最初から桜良の死が提示されている分、その時がやって来たときのショックは小さかった。でも、だからこそ彼女が僕との出会いでなにを得たのか、彼女の人生にとって彼と過ごす時間はどんな意味があったのか、というところを逆算的に考えさせられ、桜良の苦しみを思い胸がぎゅっとなりました。アニメ版は「桜良が最後の時間を僕と過ごす」という点にフォーカスを絞っていましたね。桜良の僕に対する想いや印象の変化とか、僕の他者への接し方とか、細かい気持ちの揺れと二人の交感も丁寧に描かれていて、実写版より見やすい印象を受けました。

理不尽な終幕を知りながら、それでも「わたしの人生はたくさんの選択の上に成り立っている」と信じられる桜良の強さに感動すると同時に、そう思うに至った経緯を想像すると、悔しい気持ちにもなりました。悔しいですよ、こんな素敵な考えを持つ人が早死にしてしまうんだから。フィクションなのに、そう思わされた時点で、僕はこの作品に負けたというか、惚れてしまったんだと思います。

「きみの鳥はうたえる」感想:徹夜明けの朝の生暖かい淀み

こんにちは。じゅぺです。

今回は「きみの鳥はうたえる」について。 

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正直、「きみの鳥はうたえる」にはそれほど期待していなかったのですが、非常にすばらしい作品でした。今年のベストに入る一本です。うれしい誤算でした。

本作は函館を舞台に生きる3人の若者のふらふらと浮遊する毎日をスケッチした青春グラフィティです。主演は柄本祐と石橋静河染谷将太の3人。「この夏がいつまでも続く気がしていた」とは冒頭の「僕」の言葉ですが、3人のいつまでも続くようでいて、いつしか終わりを告げる青春の日々がみずみずしく切り取られています。

鑑賞後の余韻がすごくて、いったいどころから語り始めればいいのだろうか戸惑ってしまったというのがまず率直な感想です。ある意味ではつかみどころのないお話かもしれません。「僕」や静雄にとって、変わらない平凡だった毎日に現れる佐知子。静雄とルームシェアしていたところに、「僕」と付き合い始めた佐知子が転がり込んでくるというシチュエーション。これだけで「安定」から「不安定」に移り変わるサスペンスが予感されます。「終わらない夏」を信じていた「僕」の毎日に一人の女性が入り込んでくるというだけで、それは一つの事件なのです。しかし、「僕」と佐知子が本屋では働き、たまに家でいちゃつき、一方、静雄はハローワークで求人を探すという日々のルーティーンは変わらない。どこかに変化や破滅が訪れるのではないかという不安をあおりつつ、将来決定的になにかが変わるであろうことをおぼろげながら示しつつも、物語は3人の平凡な毎日を描き続けます。

なぜ僕がこのように不穏な気配を感じながら、しかし同時に多幸感を全身にたっぷり浴びて映画の世界に浸れたのか。それはカメラの捉える景色にあったと思います。この映画では、基本的に会話の話者ではなく、聞き手を映します。発信する側ではなく、受け取る側をフィルムに焼き付けるのです。ですから、クラブやビリヤードの場面のように、3人で意味もなく笑い合って楽しさを共有する幸せなシチュエーションであったとしても、会話の中に生じるささいなズレや、場の空気に対する違和感みたいなものが、受け手側のリアクションによって自然と浮き彫りになっているのです。たとえば佐知子と静雄が仲良さげに会話しているときの「僕」の表情。表面上は笑顔を取り繕っているけど、本心では嫉妬や疑いの気持ちを抱えていることが透けて見えます。また、たとえば、カラオケで熱唱する佐知子を見つめる静雄のまなざし。明らかに、親友の恋人に対する恋心と、それを隠そうとする抵抗の気持ちと、彼女と交わることはできないという諦めが混じっています。これは佐知子を映しても、ふたりを同じフレームに映しても、きっと切り取ることはできません。佐知子をいとおしそうに眺める静雄を辛抱強くまなざすことによって初めて成り立つ演出です。徹底して話者を阻害し、受け手の側を映し続けるこのスタイルこそ、3人の浮遊した人間関係の不安定さとその先にある「夏の終わり」を観客に刻み込む重要な要素になっているのではないでしょうか。

僕はこの映画をひとことで表すとしたら「徹夜して飲んで店を出たときに感じる夜明け前の空のよどんだ生暖かさ」なのだと思っています。もうとっくに1日は終わっている。これから次の日が始まろうとしていて、がらんどうの街並みに鳥の鳴き声が響き、朝の準備のあわただしい熱を帯びはじめている。しかし、まだどこかに昨日の名残が漂っている。このうつろな空気の中をさまよう感覚。それが「きみの鳥はうたえる」なのではないでしょうか。つまり、3人の楽しい毎日がずっと続くはずないなんてことは、いい加減それなりの年齢なので分かっている。それでも、この余韻に浸っていたい。そういう感覚です。そして、「僕」が取り返しのつかない段階になってはじめて佐知子に後悔を交えながら本当の気持ちを吐露したように、もう、日が昇り始めたら太陽の動きを止めることはできないのです。問答無用で次の日が始まってしまう。そういうまどろみと焦りをごちゃまぜにしたのが「きみの鳥はうたえる」なのではないかと思います。

「アントマン&ワスプ」感想:二人のアントマンと二人のワスプ

こんにちは。じゅぺです。

今回はMCU最新作「アントマン&ワスプ」について。

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アントマン&ワスプ」はマーベル・シネマティック・ユニバース20作目の作品です。「アイアンマン」から始まったヒーローたちの壮大な神話もついに節目を迎えました。前作「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の衝撃から4ヶ月。あの破滅的なエンディングとスコットやルイスの雰囲気の整合性をどう取るんだろうと思っていましたが、時間軸を「インフィニティ・ウォー」より前に置いて、完全に「アントマン」シリーズの単独作として描いていましたね。おかげで気楽に楽しめました。

前作「アントマン」に比べても、すべてがゆるく、優しく、そして可愛くパワーアップしていました。大きくなったり小さくなったり、遊び心あふれるアクションは、流れるような軽やかさと華麗さが加わり、さらに見応えあるものになっていました。今回、時空をすり抜けるヴィラン・ゴーストが現れたことで、ギミックの面白さも加速していました。ただ、ミニチュアの街を全速力で走ったり、ネズミと戦ったりといった、絵本の世界のような発想の豊かさは失われていたと思います。「小さくなったらこんな風に世界は見えるんだ!」という驚きを感じる場面がなかったのは、ちょっと期待はずれです。しかし、クライマックスのカーチェイス、トラックの車内で自在に体のサイズを変え、ゴーストの妨害を交わすワスプのバトルはすごかったですね。さらっと見せてますが、非常に計算されたアクションになっていました。

また、時空を超えた夫婦愛と親子愛もウェットになりすぎず、しかし、待ち続けた時間の長さとハンクの一途さを感じさせて、ちょうどいい塩梅でした。「アントマン&ワスプ」が「スコット&ホープ」と「ハンク&ジャネット」のダブルミーニングになっているのも面白い。父と娘ではスコット&キャシーとハンク&ホープ、父と子の擬似親子関係ではハンク&スコットとビル&エイヴァ、共に父が科学に取り憑かれてしまった娘ではホープとエイヴァ、といった具合に、さまざまなレイヤーを重ねて「親子」を描いているのが「アントマン」シリーズの肝なんですね。

この映画のいいところは、やはりキャラクターにあると思います。出てくる人みんなとても親しみやすい。「友達になりたい」感ありますよね。もはやヴィランですら、根っこの部分では戦う動機も含めて共感できます。エイヴァはただ苦しみから逃れたいだけなんですよね。だから必死になるし、自分を邪魔するものを徹底的に排除しようとする。オリジンが少し雑な気もしましたが、戦う理由が切実でとてもいいキャラになっていました。

サンフランシスコ周辺でぜんぶが完結するこじんまりとした話だけど、事件は壮大。SFの味わいもありました。ポストクレジットのおまけ映像ではまさかの結末!「時間のもつれ」など気になるワードも飛び出しました。次は90年代を舞台に若き日のフューリーやコールソン、ロナンやコラスが登場する「キャプテン・マーベル」です。いよいよ「アベンジャーズ4」に向けて目が離せなくなってきましたね。