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「ファースト・マン」感想:「セッション」「ラ・ラ・ランド」に連なる「二人だけの物語」

こんにちは。じゅぺです。

今回はデミアン・チャゼル監督の待望の最新作「ファースト・マン」の感想です!

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ファースト・マン」は人類初の月面着陸に挑んだアームストロング船長を描く伝記映画です。アメリカ本国では月面着陸の場面に星条旗を立てるシーンがなかったことに一部の保守派からバッシングが起こるなど(「万引き家族」の炎上を思い出します…)めんどうな騒ぎもあった本作ですが、僕的にはチャゼル最高傑作と言い切ってもいいぐらい素晴らしい作品だったと思います。なので今回は「セッション」と「ラ・ラ・ランド」との比較を交えつつ、本作の行き着くゴールについて考えたいと思います。

 

「英雄」の孤独に迫る意欲作

ファースト・マン」は、アームストロング船長の英雄としてのベールを引き剥がし、米ソ宇宙開発競争の負の側面も遠慮なく描いた作品です。「偉大なアメリカ」による世界初の偉業というパブリックイメージをあえてなぞらず、ニール・アームストロング個人の内面世界に深く切り込んでいます。

ニールの内面を理解する上でカギとなるのが幼くして病気で亡くなった長女カレンの存在です。本作では人類の歴史に名を残した「英雄」が、娘を救えなかった後悔と喪失感を癒すために仕事に没頭していく姿が描かれています。寡黙で職人気質だったニールはあまりプライベートなことを周囲に話さなかったようですが、主演のライアン・ゴズリングはそんな彼の心のうちに秘めた想いや葛藤を平坦な喋りと虚ろな瞳によって表現しています。また、カメラも手持ちのブレを生かしつつ、ほとんど極端なまでに人物に近づくことで、小さな仕草や表情の変化を逃さず捉えるのです。

 

「鉄の棺桶」の恐ろしさ

また、寄りのカメラは「鉄の棺桶」とも呼ばれたロケット内部の描写でも効果を発揮します。ほとんど身体を動かす自由のなかった船内の窮屈さや息の詰まりそうな閉塞感、些細なトラブルが命を脅かす恐怖と絶望、そして愛する家族を置いて危険なミッションに向かう船員たちの不安や焦りを、これでもかと生々しく映し出します。僕も窒息しそうな気持ちになりましたし、この作戦がいかに無謀で非人道的なものであったかを物語っています。そして実はこの「鉄の棺桶」はニールの娘カレンが埋葬されるシーンの棺桶と繋がるモチーフになっています。

 

終始それほど言葉も多くなく、静かにお話が進むのは前作「ラ・ラ・ランド」とはかなり対照的ですが、淡々とした演出が逆説的にエモーショナルな部分を刺激する気がします。会話が少ないからこそ、妻ジャネットとのすれ違いや夫婦で娘の死に向き合わない違和感が強調され、少し怖くもありました。ニールは家族や同僚にも見えない「なにか」を遠い空の向こうの月に求め、望遠鏡を覗くのです。

 

驚愕の月面探査シーン

クライマックスではアポロ11号の月面着陸作戦が描かれます。これがもう凄まじかったですね。茫洋と広がる漆黒には、人間の生や死を超越した異世界を感じました。間近にある死の恐怖が強調されたロケット内部のシーンに対し、限りなく広がる月面世界はもはや「死の向こう側」と言ってもいいでしょう。カメラも手持ちではなく固定、引きの構図で撮影しており、いかに人間が小さな存在かを伝えます。

地上との無線通信が絶えず鳴り響く船内から、真空の無音状態に突入する瞬間も開放感があります。人類はついに全く異質な世界に来てしまったのだという興奮と、自分の知っている常識や価値観が一気に破壊されるような衝撃に、思わず息をするのも忘れてしまいました。じっさいに月に降り立ったアームストロング船長の心中は想像もつきません。自分だったら絶対に耐えられないでしょう。月面探査がいかに偉大なチャレンジであるかを思い知らされました。

そして、ニールは娘カレンの遺品を誰にも知られることなく静かに月面に置いていきます。その瞬間のニールの表情!彼は人類が誰も達成できなかった偉業を成し遂げると同時に、自分の人生に区切りをつけるのです。これはある種の宗教的体験と言えるかもしれません。「人類にとっての偉大な前進」も、ニールにとっては「過去を終わらせる小さな一歩」だったのですね。

 

「セッション」「ラ・ラ・ランド」との比較

最後にデミアン・チャゼルの「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」の3作のラストシーンを比較してみましょう。どの作品もチャゼル監督の作家性が濃厚に出ていて、3作ともにその道を極めた先に見える「ふたりだけの景色」をピークに持ってきています。彼はふたりの人間の関係を描くことにしか関心がないんですね。しかし、ただ同じテーマを繰り返すだけでなく、少しずつ中身も進化しているのです。


まず「セッション」のクライマックスのカーネギー・ホールでは、フレッチャーの狂気のレッスンに追い付かんともがくニールが、ついにフレッチャーと同じ領域に足を踏み込んだ時、「天才」が誕生したその瞬間に映画は幕を閉じます。ニールがビッグバンドの他のパートを無視してソロ演奏を始めたあたりからカメラはホールの観客席を映さなくなります。最後はニールの父親すら舞台袖で傍観するしかありません。ステージ上にはもはやニールとフレッチャーだけの空間が広がっているのです。第二のチャーリー・パーカーを求め、全てを捨てて戦ったふたりだけの至福の時間が流れる。その興奮のピークで映画は終わります。彼らのその後の人生は作品の関心ではありません。おそらくカーネギー・ホールのステージを私物化したふたりに音楽界での明るい未来はないでしょうが、大事なのは恋人や名誉も失ってでもたしかに何かをこの手に掴むことができたという事実なのです。何かを極めることで到達できるものが確実にあって、たとえそのためにたくさんのものを犠牲にしたとしても、彼/彼女個人にとっては価値があるのだというテーマは、その後も繰り返し描かれています。

ラ・ラ・ランド」では、愛し合う男女が夢を叶えるために別々の道を歩む姿が描かれています。セブとミアは出会うべくして出会い、別れるべくして別れたのです。もしふたりが出会わなかったら、きっとミアは大女優にはなれず、女優の道を諦めて実家に帰っていただろうし、セブは自分で店を持つこともできず、生活のためだけに音楽を続けていたことでしょう。逆にふたり一緒の人生を選んでいたら、出会わないよりはマシだったかもしれないけど、中途半端な結果になっていたと思います。彼らが出会ったことも、互いに励まし合いながら愛を交わしたことも、すべて無駄ではなかった。切ない別れだったけれど、おかげでいまの自分がある。そんな気持ちを認め合う瞬間がゼブズでのふたりの再会であり、ともに夢を追いかけた戦友の親愛と敬意の念の確認が最後のセブの切ない微笑みだったのだと思います。「ラ・ラ・ランド」は夢を叶えるためには多くの犠牲が必要であるというテーマを繰り返しつつ、「セッション」では描かなかった人生のピークの瞬間のその先に重きを置いていることが特徴です。さらに、一人で夢を叶えることは難しい、自分を支えてくれる誰かの存在もまた大切なのだということが「セッション」以上に強調されています。

ファースト・マン」は、そんな前2作の総括になっています。娘を喪ったことで遠く地球を離れた月に魅入られた男、ニール・アームストロング。彼はたとえ大切な職場の仲間たちが命を落とそうと、愛する家族が彼の身の安全を案じようと、鋼の意思で自分の道を突き進み、一心不乱に月を目指しました。彼は地球にいる限り娘の死に囚われ続けていたのです。月面に延々と続く砂と岩の平原と茫洋と広がる漆黒の闇は、この世のものとは思えない異質な空間でした。ほとんど冥界への入り口だと言ってもいい。ニールはそこに娘の遺品を、自分の人生にひとつの区切りをつけるのです。この映画のラストカットは、地球に帰還したニールとジャネットが隔離室のガラス越しに見つめ合う場面になっています。妻からすればニールは物理的にも精神的にも別世界へ行ってしまったわけです。地球を発つ前、息子たちとまともに会話しようとすらしなかった父。心の傷を抱えたまま、最愛の人にすら本心を打ち明けない夫。もはや幸せだった時間は戻ってきません。月面である種の悟りの境地に達したニールと妻の関係は決定的に変質してしまいました。茹で上がった卵のように、その形が元に戻ることはないのです。

「セッション」では犠牲の先に見えるふたりだけの景色を描き、「ラ・ラ・ランド」ではセブとミアの別れを描くことで夢の実現の代償の大きさと、それでも人生は進んでいくのだというビターな現実を描きました。「ファースト・マン」はさらにその先を描いています。ニールとフレッチャーも、セブとミアも、代償は払っているけれど、ふたりとも欲しいものは手に入れています。しかし、ニールとジャネットは違います。月への挑戦は娘を喪った心の空白の埋め合わせであり、あの空の向こうには何かがあるかもしれないという執着なのです。そしてニールは月面に降り立つことで自分の人生に折り合いをつけるきっかけを得たけど、ジャネットはそうではありません。どんどん遠くへ行く夫を見守ることしかできなかったのです。しかし、ふたりは夫婦だから、セブとミアのように未練を残しつつも別れるなんてことはしません(実際はアポロ計画の32年後にふたりは離婚していますが)。多少のしこりと違和感を抱えたまま、彼らは共に人生を歩んでいくのです。一方で、この葛藤も無駄ではなく、たしかに人類初の偉業を成し遂げたことで目の前に現れた景色があります。「セッション」から始まり、徐々に夢の実現とその代償の境界がぼんやりと曖昧になってきているのが、チャゼル作品の進化だと思います。「セッション」では興奮のピークで終わったけれど、「ラ・ラ・ランド」はピュアだった青春時代の余韻をノスタルジーとともに振り返り、「ファースト・マン」では、綺麗さっぱり過去を振り切った後に待ち構えているであろう現実(この場合はニールとジャネットの関係、英雄としての周囲の評価など)の重みを描いています。どんどん人生の苦々しさが加わっている気がしませんか笑 次回作でどうなるか楽しみですね。