映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「Mr.インクレディブル」感想:正義と独善

こんにちは。じゅぺです。

今回は「Mr.インクレディブル」について。

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このまえテレビでノーカット放送していたのでみました。映画館以来だから、14年ぶりですね。ほとんど中身を覚えていなかったので、新鮮な気持ちで見られました。

彼らの能力って、まあほとんど「ファンタスティック・フォー」のパロディですよね。この頃からサム・ライマ版の「スパイダーマン」など、アメコミ映画が流行り始めていました。「Mr.インクレディブル」はアニメーション作品ですが、昨今のアメコミ映画ブームのけん引役的位置づけに入れてもいいんじゃないかと思います。クライマックスのアジト突入パートは、各々に能力を発揮する見せ場があって楽しいです。怪力だったり、身体が伸びたり、なんとなく能力そのものもコミカルなところがあって、ディズニーらしいスラップスティックな笑いがあります。僕はイラスティ・ガールが何重にも扉に挟まって身体が伸びまくるシーンが好きです。そこでの機転の利かせ方もオシャレですね。

ストーリーとしては、「特性を抑圧される苦しみ」が肝かと思います。「シビル・ウォー」のソコヴィア協定よろしく、傍迷惑な戦いを繰り返すヒーローたちの活動を禁止する法律によって「本来の力」を隠さざるを得なくなったファミリーたち。しかし、彼らの善をなそう、力をみんなのために生かそうという熱いパッションは、法律では規制できないんですよね。けっきょく映画の中では違法な行為であることに変わりはないのだけど、巨大な赤を前にしたとき、自然と身体が前に出てしまう4人の活躍は、世界を救うことになります。

監督・脚本はブラッド・バードですが、この人は「トゥモロー・ワールド」でも似たような話を作っています。どちらの作品でも「能力のある者は、みんなのためにその力を発揮するべきだ」というメッセージを読み取れると思います。ただ、これは受け取り方にはよっては独善的な響きを帯びてくる。少々「選民思想」のにおいがしてしまうんですよね。今回のヴィランはもともと「凡人」でしたが、けっきょく「天才」の邪魔をする存在としてか扱われない。なんの取り柄もない一般人は救われないのです。見ている側の大多数は「なにもない」人たちなのに。なんだか居心地の悪さを感じてしまいます。最近は全方向への目配せと「正しい」メッセージの発信を意識した作品が続くディズニー/ピクサーも、この頃はすこしまた雰囲気が違ったんだなあと思います。じつは続編の「インクレディブル・ファミリー」でもこの違和感はあったのですが、詳しいレビューは後日。

「百日紅 Miss HOKUSAI」感想:お栄と江戸の生命力

こんにちは。じゅぺです。

今回は「百日紅 Miss HOKUSAI」について。

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Miss HOKUSAIことお栄が本作の主人公。お栄は北斎の娘で、偉大な父と同じようにすばらしい絵画を残しました。残念ながら現存する作品はそれほど多くないようですが、北斎の浮世絵にもアシスタントとしてかなり関わっていたことは事実のようです。

百日紅」はそんなお栄の日常を鮮やかに、かつ、地に足ついたタッチで描くアニメーション作品です。監督は原恵一。劇場版クレヨンしんちゃんシリーズで数々の名作を世に送り出した名監督です。

この映画は、ご飯を食べたり、作業をしたり、何かをしながら見ていたので、細かいディテールや脚本について感想を練られるほど目を配っていなかったのですが、まず、江戸の街並みとそこで暮らす人びとのエネルギーには圧倒されました。本当にこの街に人びとが「生きている」んですよね。たとえば、冒頭の両国橋。行き交う人びと一人ひとりに表情があって、生活があって、人生があります。リアルな人間の営みが作り込まれていて、当時世界一だった100万人都市の奥深さを感じさせます。まるで当時の江戸を観光してあるきているような気分にもなりました。あと、いまの東京を知っていると、いろいろ比較してみても楽しいですよ。両国なんて今は隅田川沿いの一エリアでしかないですが、当時は流行の最先端を行く原宿と年配者の集まる巣鴨のどっちの要素も持った繁華街なんですから。これを見たあと江戸東京博物館で歴史を学んで隅田川散策なんてのも楽しそうです。

あと、不思議だったんですが、江戸とロックの相性もいいですね。エンディングで流れる椎名林檎のセルフカバー曲「最果てが見たい」も最高でした。

鑑賞後の余韻として残ったのは、清々しさでした。なぜだか元気が湧いてきたんですよ。僕には最初この感覚がわからなかったのですが、おそらく、それはお栄さんの生き様が清々しいからなんだと思います。毎日働いてご飯を食べるのって、今も昔も変わらないことなんですよね。偉大な父とゴミだらけの屋敷で絵を描き続け、外を出歩いては新しい発見を得る。離れて住む大切な妹のことを思う。そういう毎日を、地面を踏みしめながらきちんと生きている、そんなお栄さんに200年の時を超えて、元気をもらいました。

そういえば、「北斎漫画」も途中で放置してるので、続きを見なくちゃなあ。

「カランコエの花」感想:ひとは間違いを犯す生き物だから

こんにちは。じゅぺです。

今回は「カランコエの花」について。

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カランコエの花」は「この教室にLGBTがいる」というひとりの生徒の発言が巻き起こす一週間の事件を描いた短編映画です。劇伴もなく、エモーショナルな目線を極力省いたシンプルな作りになっています。

この映画は、保健の先生が黒板に「LGBT」の4文字を書いたことから始まります。先生の言葉にある小さな違和感を逃さなかった生徒は、「この教室にはLGBTがいるに違いない」と魔女狩りをするようになります。LGBTへの侮蔑と好奇心から始まった彼の「からかい」は、やがてたくさんの人を傷つける悲劇的な結末を迎えるのです。

しかし、この映画では明確な「悪役」はいないんじゃないかと思います。たしかに、魔女狩りをした生徒たちの言動は軽薄で、とうてい許されるものではありません。「LGBTは誰だ?」と言い始めた男の子の目には、攻撃対象を求める邪悪さを感じました。結果的に教室に差別を持ち込んでしまった保健の先生も、大人として考えが足りなかったと言わざるを得ません。純粋な恋心に「いけないこと」の烙印を押されて苦しまなければならなかったさくらちゃんをその呪縛から解き放ってあげる機会はたくさんあったのに、残念ながらまわりの人びとはことごとく「不正解」の道を選んでしまいました。でも、たとえ「正解」の選択肢がわからなかったとして、わからなかった彼らが「不正解」な人間だとは、どうしても思えないんですよね。行いが正しくなかったからと言って、その人自体が正しくないわけでもないし、存在を否定されるべき悪なのでもありません。ただ、「不正解」を選んでしまったというだけ。人は間違いを犯す生き物です。何かに失敗してしまったとしても、どこかでやり直すチャンスがあるべきではないでしょうか。

最初に述べたように、本作はあえてエモーショナルな描写を避け、冷静なスタンスを保ち続けています。ただ人間の過ちをカメラに写している。「不正解」も責めません。彼らを「赦す」べきなのかとか、何をするのが「正解」だったのか考えるのは、すべて見る人に委ねられているのです。しかし、エンドクレジットにある仕掛けはそんな「外部」の視座から一気に当事者の「内面」に迫るものになっています。淡々と、そして、残酷に、ひとりの恋する少女が人知れず好奇の目線を感じ、蔑ろにされ、一生の心の傷を負ってしまったという事実が突きつけられます。さくらの失望と苦しみを想うとやるせない気持ちにさせられます。

でも、このお話は絶望だけじゃないと思うんです。見終わった後、人間はやり直せるというたしかな感触が手に残るんですよ。それはタイトルの「カランコエの花」と関わりがあります。

主人公的ポジションの女の子のひとり、月乃はお母さんの買ってきた赤いカランコエの花のシュシュを着けています。カランコエ花言葉は「あなたを守る」。月乃は親友のさくらが自分に恋心を抱く同性愛者だと気づいたとき、なにも手を差し伸べてあげられませんでした。苦しんでいるのはわかっていたのに、かけるべき言葉が見つからなかったんですね。

しかし、次の日、月乃は彼女をかばうつもりで「さくらはLGBTなんかじゃないよ」と言ってしまいます。それが彼女のすべてを否定してしまう言葉だとも知らずに。良かれと思ったことが、親友の心をズタズタに引き裂いてしまったのです。走り去るさくらを見て呆然と立ち尽くす月乃。このとき、まだ彼女はさくらの本当の心のうちをわかっていなかったんじゃないかと思います。

その次の日の朝、学校に行く支度をしながら鏡台に向かう月乃は、カランコエのシュシュをなかなか着けられずにいました。「あなたを守る」という意味を持つこのカランコエのシュシュを着ける資格は自分にあるのか、そして、その覚悟を持つことはできるのか。逡巡した末に月乃は「着ける」選択をします。まだやり直せると信じていたんですよね。しかし、教室にはもうさくらがいませんでした。ここで初めて月乃は彼女を失ってしまったという実感に襲われたのでしょう。カランコエのシュシュを外してしまうのです。「あなたを守る」なんて言葉を背負うだけの自信がなくなってしまったのでしょう。非常に重い意味を持つシーンだと思います。

しかし、最初に言ったように、僕は彼女たちはやり直せると信じています。だって、月乃は「カランコエの花」のシュシュを着けるという選択を自らしたからです。「あなたを守る」という決心は、きっと本心だったはずです。この選択は、作中唯一の「正解」だと思います。彼女はさくらとやり直すという正しい道を選べたんです。だから、きっといつか彼女にはもう一度「カランコエの花」を着ける日が来るんだと思います。そして、さくらのいない教室に残されたクラスメート全員に、「正解」を選び直す未来があるんじゃないでしょうか。すくなくとも僕はその可能性を信じたいし、この映画を見た一人でも多くの人が「カランコエの花」を心の中に持ち続けることができたらいいなと思います。

「オーシャンズ8」感想:軽妙だけど…ちょっと軽すぎ?

こんにちは。じゅぺです。

この間、試写会で「オーシャンズ8」を見てきました。すでに先週から公開が始まり、洋画ファンの話題を呼んでいます。というわけで今回は「オーシャンズ8」のネタバレあり感想を書きたいと思います。

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オーシャンズ」といえば、言わずもがな、スティーブン・ソダーバーグ監督の大人気犯罪映画でしょうそれぞれに業界一の腕を持った一流の犯罪者たちが、チームプレーで困難な窃盗ミッションに挑むシリーズです。二転三転する騙し、騙されの展開もさることながら、主役級の俳優たちが集結する「オールスター」感も最高でした。ジョージ・クルーニーブラッド・ピットマット・デイモンドン・チードルジュリア・ロバーツなど、彼らのギャラだけで何本映画撮れるんだと思いたくなるぐらい豪華な顔ぶれです。こんなにスターが集まる映画シリーズなんて、それこそ「オーシャンズ」と「アベンジャーズ」ぐらいじゃないでしょうか。

オーシャンズ8」は「オーシャンズ」の兄妹的スピンオフ位置付けとなっています。こちらもサンドラ・ブロックケイト・ブランシェットアン・ハサウェイヘレナ・ボナム・カーター、リアーナなど、ゴージャスなキャスト陣。サムネイルにも選んだ子のビジュアルがファーストルックで公開されたときは、なかなかにテンションが上がりましたよ。

で、感想ですが、ほぼ期待どおりだったと思います。華麗な衣装を見にまとった美女たちが、汗水ひとつかかず、さらりと軽妙に大犯罪をこなしていく。オールスターキャストたちの会話も小粋なジョーク(あまり下品な笑いもなかった)で楽しかったし、まあほんとに美形ぞろいなのでスクリーンを見ているだけでうっとり幸せな気分になれます。特にケイト・ブランシェットアン・ハサウェイは良かったですね。ケイトはマニッシュでクールな風格を漂わせつつも、「大人の女性」の色気も出していて、とっっってもカッコよかった。酔っ払い相手に薄めたウォッカを売りさばくという、だいぶセコい犯罪を生業としているのも、ギャップが可愛くてグッドです。そして、アン・ハサウェイはもうキュートなオーラがすごい。自分を見せることにすべてを捧げるナルシスト。ちょっと嫌味ったらしく映るところもありますが(アン本人のパブリックイメージと重ならなくもないですね)、しかし、裏返せばがんばり屋さんということでもあります。ドレスを着るために3日間絶食して、晩餐会のスープにがっついてしまうダフネがほんとに笑えます(そのあと踏んだり蹴ったりな目に遭うのも含めて)。ふだんから涙ぐましい努力を積んでいて、根っこはピュアなんだなぁ〜と思うと、憎めませんね。この二人は大好きなキャラです。

まあただ、特筆すべきはこの「キャラ萌え」要素ぐらいかなあと思いました。たしかに軽妙な犯罪劇といえばそうなんですが、軽妙すぎて逆に重みがない。ケイパーものに求められるり爽快感」「裏切られた感」は足りなかったと思います。スルスルと進行してテンポがいい分、見ていて感情がうねるような「タメ」だったり、予想を超えるような裏切りは少ないんですよね。まあもともと「オーシャンズ」シリーズはキャストやシチュエーションの華々しさに反して淡々と物語が進むのがひとつの特徴かもしれませんが(だから3作とも中身が薄い)、残念ながら「オーシャンズ8」もその悪い部分は受け継いでしまったかもしれません。

ちなみに、良くも悪くも一番裏切られたのはジョージ・クルーニーが出てこなかったところですね。冒頭から死んだことになってますが、ところどころで遺影や墓が登場するなど、思わせぶりな演出をしておいて、何も起こらない。てっきり最後にサプライズで登場するのかと思ってました。ラストのお墓入りのシーンなんてカメラワークもそれっぽい雰囲気あったじゃないですか。これは続編に期待しろということなんでしょうかねえ。できれば本流のキャストと合流した「オーシャンズ」大集合映画が見たいところですが、その前にワーナーがギャラの支払いで潰れてしまいそうです。というのは冗談として、次あるとしたら追加キャストは誰か?なんて妄想するのも楽しそうですね。ちなみに僕はルピタ・ニョンゴを予想しておきます。

「セトウツミ」感想:無限に広がる日常

こんにちは。じゅぺです。

今回は「セトウツミ」について。

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上映時間は1時間10分ちょっとでしょうか。そのあいだずっと川辺に座る高校生二人の会話です。学校の教室で後ろの席に座ってる同級生のおしゃべりを盗み聞きするような感覚。二人のことをすでに「知っている」と錯覚してしまう、そんな親しみやすさがあります。コントのようなテンポの軽妙な掛け合いが心地よいです。

将来のことについてとか、恋愛についてとか、深い話をしているようでいて、やっぱり大したことは話していなくて、下らない内容だったりする。息ぴったりで似た者どうしなのだけど、重ならない部分もあるし、けっきょく他人は他人なんですよね。過度にべったりウェットな感じもしない、かと言って突き放しもしない、この距離感が最高です。意外と長く続く友だちほど、こういう付き合い方しますよね。

冒頭からマクガフィン的に働く中条あやみの存在感もここに書き残しておくべきでしょう。ストーリー的にも面白い構成で、最初に彼女の名前が出てくるので、そのあとの会話でもずーっと引っかかってくるんですよね、彼女のことが。そして最後に彼女の目線で物語はクローズする。ある意味視聴者的な立場で。やっぱり側から見ればあの二人はちょっと変です。そして愛おしい。もっとあの会話を聞いていたい。映画の外にも無限に世界が広がっていく、すごく「日常」に寄り添った作品なんじゃないでしょうか。山下敦弘監督「もらとりあむタマ子」やジム・ジャームッシュ監督「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を思い出しました。あとちょっとだけ僕の大好きなノーラ・エフロン脚本「恋人たちの予感」も。ああ、あの映画の登場人物は、いまごろどんな人生を歩んでいるんだろうな。

 

「義母と娘のブルース」第5話 感想:小さな奇跡、大きな奇跡

こんにちは。じゅぺです。

今回は「義母と娘のブルース」第5話について。

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ついに良一さんが入院してしまいます。良一さんと亜希子は、娘や職場に事情を知られまいと東奔西走。いやいや、病気を職場に隠しちゃダメでしょ!と言いたいところですが、野暮なツッコミはいりませんね…。

今回、胸がぎゅーっと締め付けられるポイントが3つありました。

まず、病気で苦しむ良一さんが亜希子に吐き捨ててしまった言葉。看病という初めての経験にあたふたしてしまう亜希子。ふだんだったらそんな彼女を見て「面白いですね」と良一さんも笑うんでしょうけど、病気の苦しみと迫りくる死の予感から余裕のない良一さんは、「あなたと私は本当の夫婦ではない」と心ない一言をぽろっと漏らしてしまう。掴みかけた何かが手のひらからこぼれ落ちていくような感覚に襲われました。このときの亜希子の表情が、切なかった。思わず持っていたものを戻してしまいますからね…。

次に、自販機で「当たり」が出た良一さん。どうしても生きたいと願い、奇跡にすがる想いの彼は、たまたま出たその「当たり」でさえ、自分の「運」を使うことを渋ります。まだ本当に運を使わなければならない時があるのだと。どれだけ彼が本気か、どれだけ彼が奇跡を信じたいのかと思うと、胸が苦しくなりました。必死なんですね。ふだん飄々としてるからこそ、いつもと違う彼が痛々しいのです。

最後に、みゆきが撮った亜希子の写真。良一さんが入院している今、親をやれるのは自分しかいないと張り切る亜希子。そんな姿をカメラに収めるみゆき。写真って、撮る人の世界の見え方なんですよね。みゆきの撮る亜希子には、優しさが溢れています。一生懸命仕事と家事をして疲れ切った、安らかな寝顔。そしてその奥に映るのは、小さな奇跡。良一さんの癌という重たいテーマで進む第5話ですが、最後にこれなんですよね。温かい気持ちで満たされました。

家族の絆は徐々に芽生えはじめているんだなと思います。ときに裏切られ、傷つくこともありますが、やはり根底にあるのは「一緒にいたい」という気持ち。しかしまた3人でその気持ちがちょっとすれ違っているのが可笑しい。みんな真面目で、みんなすこしだけズレてる。そこが楽しいんですね。彼らの幸せは束の間なのか、それとも、また新たな波乱が家族を襲うのか。そのうち上白石萌歌もみゆき役で登場するようです。はやく来週にならないかな〜。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」第4話 感想:頑張らなくてもいいとき

こんにちは。じゅぺです。

きょうは「健活」第4話について。

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今回、えみるは脇役でしたね。彼女の同僚である七条にスポットライトが当たります。七条を演じるのは山田裕貴。彼って「気持ち悪いイケメン」を演じさせたらピカイチだと思います。「伊藤くん A to E」はなかなか強烈でした。「健活」の七条もねっとりしたマザコンを演じています。あの粘っこい声がいいんでしょうね。で、これまではそのマザコン設定のせいでネタキャラの漂っていた七条ですが、今回、彼がなぜマザコンなのかが明かされます。母子家庭だったんですね。女手ひとつで大事に一人前の大人まで育ててくれた母親に抱く感謝や誇りの気持ち。それがどうやら表に出すと親離れできていない幼稚な側面になってしまうようです。

そんな彼が担当するのは、激務と夫のDVでプライドも心もズタズタになったシングルマザー。「自分は生活保護を受け取るような人間ではない」という思いが、結果的に彼女の自立を妨げてしまっているようです。もっと頑張れるはずなんだという強迫観念が、彼女を徹底的に追い込みます。

演じるのは安達祐実。彼女、辛気臭い役ばかりやっていますね。もともと幸薄そうな顔してましたが、ここに加齢による疲れ感が加わり、(こんなこと言うと引かれそうですが)なんとも嗜虐心をくすぐられるような弱々しさと不幸オーラをまとっています。彼女もまた山田裕貴と同じように声に特徴があり、子どもっぽい印象を強めています。

話を戻します。七条くんは母子家庭で育ったので、シングルマザーの苦しみもわかっているつもりでいます。苦労の末に成功した人によくある話なのですが、「自分はできたんだからお前もできるはずだ。」という思考に陥ってしまうんですよね。悲しいことに、七条くんもこのパターン。しかし、挫折を繰り返してきたシングルマザーには「頑張れ!」のひと言がたいへん残酷に響きます。ここはかなり見ていて辛い場面でした。どちらの気持ちもわかるだけに。二人とも「頑張り」が空回りしてしまっているんですよね。そんな七条の姿を見かねて自らの家庭環境と経験を吐露する係長がカッコいい。田中圭のくたびれ感がセクシーです。

最終的に、七条が導き出した答えは「甘えていいんだよ」ということ。頑張ってるのにうまくいかない人に、「頑張れ!」の励ましは攻撃と同じです。責任感やプライドがある人ほど、たぶんこの言葉は鋭く刺さってしまうことでしょう。人によって「頑張り」のレベルは違います。どうしても力が出ないときだってあります。だから、もうダメだと思ったときは「頑張らなくていい」のだし、精いっぱい人に甘えればいいんです。頑張れるときに頑張ればいい。これって、そのまま「生活保護」の制度の精神にそのまま通じるんじゃないかと思います。みんな「生活保護」は「施し」であり「恥ずべきこと」だと思っているようですが、それは間違いです。もちろん条件はありますが、「健康で文化的な最低限度の生活」を送るための、国民の権利です。甘えたいときは甘えればいい。なにかと「自己責任」の言葉を振りかざし、他人に厳しい世の中ですが、この考えはもっとみんなが持つべきだなあと思います。