映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「ゴッズ・オウン・カントリー」感想:二人一緒なら世界は違って見えてくる

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ゴッズ・オウン・カントリー」の感想です!

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「ゴッズ・オウン・カントリー」は、イギリス・ヨークシャーで孤独に生きる二人の男たちが愛を育んでいく様を描くヒューマンドラマです。

 

恋愛映画の「枷」を外すこと

同性のカップルを描く作品ということで、思い出すのは「ブロークバック・マウンテン」や「チョコレートドーナツ」。家畜を育てながら広大な自然にぽつりと二人、愛をはぐくむジョニーとゲオルグの姿は「ブロークバック・マウンテン」を連想させます。

しかし、毛色はすこし違います。いきなり核心部分にふれますが、いわゆる「悲恋」ではないんですね。同性であるがゆえに苦しむということがない。ちょっと前までは、それこそ「ブロークバック・マウンテン」みたいに周囲の偏見に抗いながら愛を勝ち得ようとする同性愛者の姿が描かれてきました。現実は依然として厳しい状況ではあるけれど、映画の世界は少しずつ前に進んでいて、必ずしも紋切り型の「悲恋」だけではなくなってきました。ちょっと前までの「戦争」や「階級間格差」のように「同性であること」が恋愛映画の「枷」になることはちょっとずつ少なくなっていくのかなと思います。「君の名前で僕を呼んで」も、純粋に男と男の恋愛で、周囲の目線は画面の外に押し出されていましたからね。反証はあげようと思えばいくらでもあるのかもしれませんが、僕は以上のように認識しています。

 

男と男だから描ける関係

しかも、出会ってすぐ惹かれ合うので、恋愛映画的な駆け引きがないんですよね。これが異性間だとそもそも距離を詰めるのにも下心を隠して、相手の真意を探って…となるわけですが、ジョニーとゲオルグはちょっと違います。同性だからこその距離感ってやはりあるんですよね。第一印象最悪でツンツンした関係から始まるあたりは「高慢と偏見」的な少女マンガパターンを踏襲していますが、そのあと何事もないかのように二人で同衾できるのは男同士だからですよね。男と女だとそうはいきません。友だち関係から恋愛感情が徐々に芽生え…というのは、もちろん異性同士でも普通かもしれないけれど、同性同士では違った趣があるのではないでしょうか。

よく同性の恋愛を描く作品で「異性愛も同性愛も一緒。愛は普遍的」という感想を見ます。もちろんそれは正しいし、まったく否定する気もないのですが、男同士だからこそ、女同士だからこその恋の芽生え方というのもあるのではないかと思うようになりました。たとえば主人公の男が相手の「男らしさ」に惚れ、「なりたい自分」をその人に重なるとき、それは異性間ではなかなか描きにくいテーマなのではないかと。恋愛映画ってどんどん幅が広がっているんですね。それは世間の「恋」や「愛」の定義が変わり、いろんな形のものを包摂するようになったことの証左でもあるのではないでしょうか。

 

迷える羊と羊飼い

そろそろ「ゴッズ・オウン・カントリー」の話をしますと…この映画はとっても愛に溢れた作品だと思います。ゴッズ・オウン・カントリー=神に恵まれし土地というタイトルの示す通り、ジョニーとゲオルグの出会いと幸せな生活を静かに祝福するような映画になっています。

いつも刺々しく不機嫌な主人公のジョニー。幼なじみは地元を離れて勉強や遊びに励んでいるのに、自分は老いた父の世話と家業のために田舎に閉じ込められている。そんな鬱屈とした感情を行きずりの男との刹那的な交わりで発散し、夜は酒に溺れて辛い気持ちを全部忘れようとする。すべてが無意味に思えてしまう毎日。

そんな生活を送るジョニーの元にやってきたゲオルグ。初めはいがみ合う二人ですが、どれだけ失礼な態度を持ってもケガをしたら親身になって治療をしてくれるゲオルグに、ジョニーは好意を抱き始めます。やがて二人は性的関係を結び、父の農場を共同で経営していくことを夢見始めます。

「ゴッズ・オウン・カントリー」は、タイトルにゴッド=神とあるように、キリスト教的なモチーフが散りばめられている作品になっています(といっても僕自身それほど丁寧に探したわけではないのですが)。たとえば、ジョニーは丘の上で農場を経営しています。そして彼を支えることになっていくゲオルグは羊の出産を介助したり、死んだ羊の毛皮を剥がして弱っている羊に被せたり、とにかく羊の扱いな手慣れています。この姿はそのまま混乱の中からジョニーを引っ張り出していく姿と重なります。つまりゲオルグは迷える羊を導く存在なんですね。素朴な世界観の中で浮かび上がってくる「迷える羊」と「導く牧師」の関係はキリスト教のモチーフに繋がります。

だからといってこの映画で神の存在が描かれているとは思いません。しかし、ジョニーにとってゲオルグが現れたことはどれほどの「救い」だったのだろうか考えることはできるでしょう。もしかしたら、見方によってはゲオルグは「天使」そのものかもしれませんね。

 

二人一緒なら世界は違って見えてくる

この映画を見ていて何度も「愛だなあ」と感じました。ジョニーからゲオルグへの愛、ゲオルグからジョニーへの愛、そしてジョニーから父への愛。いろんな愛が登場するんですね。しかしそれが必ずしも噛み合うとは限らない。ボタンのかけ違いから徐々にギャップが広がって、分かり合えるはずなのに傷つけ合ってしまうこともあります。そこが人と人の営みの切ないところであり、愛おしいところでもあります。

いちばん「愛だなあ」と思ったのは、ジョニーの目つきの変化です。はじめは余裕がなくて誰に対しても当たり散らしていたジョニーがゲオルグと出会い、徐々に彼に甘えた表情を見せるようになるところなんてとっても可愛かった。ケガの手当てをしてもらったり、ごはんを作ってもらったり、完全に子どもとお母さんの関係になってましたね笑 ゲオルグは何でも器用にこなすから、頼りたくなっちゃうのもわかります。あの広い草原で窮屈さを感じていたジョニーが、本当の意味で心安らぐ場を見つけたのだと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられます。

そんな二人の関係を考える上で、僕的に印象的な場面がひとつありました。ジョニーとゲオルグが丘の上に泊まり込みの作業をしていて、夜ご飯にカップ麺をすするシーンです。二人一緒に並んでいる姿を見たとき、僕の頭によぎったのはジョニーが一人でいる姿でした。きっと彼がひとりぼむちだった時は、カップ麺を食べるのもただの腹を満たす作業でしかなかったのでしょう。でも、いまはゲオルグがそばにいて、ちょっぴり楽しいお食事の時間になっているのです。たとえ言葉をたくさん交わさなかったとしても、ジョニーとゲオルグは繋がっています。きっとジョニーには一人でいる時と全く違う世界が見えているはずです。それはゲオルグも同じことでしょう。

しがらみだらけで疎ましく思っていた「美しいけれど寂しい土地」もゲオルグと一緒なら神に与えられた恵まれし土地に。世界がぱっと明るくなるよう出会いって尊いです。丘の上の家に二人して入っていくラストカットがいつまでも僕の目に焼き付いています。