「二重のまち/交代地のうたを編む」感想
「二重のまち/交代地のうたを編む」みた。ことしベスト!非当事者の4人の若者が、震災の記憶を語り継ぐ。想像し得ない他者の記憶に寄り添う、その暴力性に葛藤しながらもなお「想像」を試みる。いとうせいこう「想像ラジオ」や新海誠「君の名は。」で描かれた「忘れちゃいけないこと」とリンクする。
「非当事者」であることの後ろめたさ、それでも無関心でいられず、「非当事者」としてなにか関われるのではないかともがくことは、なにも震災の経験に限った話ではなく。それはジェンダーの問題(男がフェミニズムを語れるのか)であったり、遠い海の向こうで起こる紛争に対する関心であったりする。
陸前高田は大津波の被害があった地域にかさ上げ工事を行なっている。かつて多くの人が住んだまちは、震災の記憶とともに「二重のまち」となって地下深くに沈められていく。たしかにそこに在った身体的な記憶は、徐々に切り離されていく。しかし、だからといって全てがなかったことになるわけではない。
瀬尾夏美と小森はるかが言うところの「交代地」とは、当事者と非当事者が交わる場所、そして、地下深くに埋まるかつてのまちと、陸前高田の人びとが生活を営むいまのまちの交わる場所、である。非当事者は当事者のことばを代弁し得ない。おのれのフィルターを通してしか語ることはできないのだ。
そのある種の無神経さを受け止め、それでも「わからない」なりに想像し続けようとすること。しかし、わからないが故の尊さ、ひとつ一つの命が、人生が唯一・絶対であるという真理にたどり着いて初めて見えてくる景色があるのではないか。これは、継承、そして民間伝承の誕生に立ち会える映画だ。
震災の経験を非当事者が語り得るのか、という問題は(「死者の声」にいかに耳を傾けるのかが主軸であったが)いとうせいこうの「想像ラジオ」でも語られている。映画的な話をすると、テーマにも関わってくるのだが、インタビューの様子を取材しながらもその様子を映像で見せないのがいい。
あくまで「旅人」がその経験を語る…という形式を取るのだ。冒頭、映画の趣旨をつかめていない僕は、なんてまどろっこしいことをするのだろうと思ったけど、この営みこそが瀬尾夏美と小森はるかが狙う「継承」の試みなのだと知る。そして、みんな声がいい。身体から生まれる、体温のある声なのだ。