映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「霧の波止場」感想:負け犬が見た夢

こんにちは。じゅぺです。

今回は「霧の波止場」について。

f:id:StarSpangledMan:20180909210935j:image

「霧の波止場」は1949年公開のフランス映画です。監督はマルセル・カルネ

なにもかも嫌になっていた脱走兵のジャンが、逃走先の港街で美しい少女・ネリーと出会い、人生のよろこびを知り、生きる希望を持ちはじめる。しかし、ネリーを狙う男は他にもいて、徐々にジャンとネリーの関係を邪魔するようになる…というお話。

要するにジャンは軍隊を抜け出し、人生を諦めようとした「負け組」です。場末の酒場で出会った美女と過ごすという希望が、なんとも美しく儚い。またネリーを演じるミシェル・モルガンの顔が現実離れした目鼻立ちで、決して背も高くなく美男子ともいえないジャンの夢が遠くにあることを印象付けます。なによりタイトルにある「霧」がジャンとネリーの行く末を暗示しています。まるでここが世界の果てであるかのように波止場に立ち込める、ぶあつい霧。場末のバー、ザベールの地下室、霧に包まれた波止場の船。どこを切り取っても閉塞感があり、どれだけ希望を抱いてもここから先には飛び立てなさそうな重い空気が見る者の心を押しつぶしていきます。ラストカットがいつまでも頭にこびりついています。大傑作です。

「40歳の童貞男」感想:これぞジャド・アパトーのコメディ

こんにちは。じゅぺです。

今回は「40歳の童貞男」について。

f:id:StarSpangledMan:20180921115349j:image

「40歳の童貞男」はスティーブ・カレル主演、ジャド・アパトー監督のコメディ映画です。家電量販店で働く冴えない中年男・アンディが主人公。変化のない平凡な毎日に満足していたアンディですが、ある日、40過ぎても童貞であることが下ネタ好きの同僚たちにバレてしまい、「アンディに童貞を卒業させる作戦」が始まることになるのです。

ネタとしてはしょうもないものがほとんどですね。そしてだいたい下ネタです笑 全員突っ込まずにはいられないトボけっぷりなのですが、それぞれ自分だけは常識人であるかのように振る舞っているのが笑えます。ジャド・アパトーの作品って、このズレっぷりをユーモアたっぷりに、ときに皮肉っぽく描きながらも、けっして攻撃的ではないのが優しさを感じて好きです。下ネタがエグすぎるときは多々ありますが、嫌な気持ちになるような笑いはあまりないですよね。なんだかんだ温かみがあります。ちなみに、いちばんの お気に入りのギャグは、職場のTVコーナーでじぶんの赤ちゃんのエコー映像流してるジェイの場面です。

脇役にエリザベス・バンクス、カット・デニングス、ジョナ・ヒル。スティーブ・カレルの同僚役にセス・ローゲンポール・ラッド。主役級のスターになる前のジャド・アパトー組が大集結していて、今となってはレアかもしれません。とても豪華です。若い頃のエリザベス・バンクスがすごく可愛かったり、スティーブ・カレルはあいかわらず冴えなかったり、それぞれのキャストにも見所があります。

エンディングのカオスっぷりには驚きました笑 さんざん笑って最後はほっこりした気持ちに。疲れたときに見るにはちょうどいい軽さの作品です。しかし、アンディにはオモチャを守ってほしかったな…。

「用心棒」感想:三船のチャンバラに惚れる

こんにちは。じゅぺです。

今回は「用心棒」です。

f:id:StarSpangledMan:20180828005940j:image

黒澤明は「七人の侍」「羅生門」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」「生きる」あたりは見ました。「どですかでん」はつまらなくて途中でやめてしまいましたが。どれも出てくる人間の欲深さやその愚かさを身近に感じたり、どうしようもない人間のどうしようもないところを見ることができて好きです。

今回の「用心棒」は「椿三十郎」の前作的な立ち位置になっています。だって主人公の名前が「桑畑三十郎」ですから。悪事を見逃さない浪人の侍が、正義を成すために、訪れた先で住人を苦しめる悪党たちを裁く。勧善懲悪の時代劇になっています。

ストーリーはわりとシンプル。清兵衛と丑寅の騙し合いと、その間で手綱を引く三十郎。このトライアングルの中でなんども主導権が行き来し、最終的に一騎打ちまでもつれ込むという流れになっています。三十郎が明らかにバレたらヤバいウソをついて清兵衛と丑寅の戦いをかき乱すのが面白い(そしてやっぱりバレてヤバいことになる)。複雑になりそうなところをわかやすく交通整理した脚本と演出と編集がやはりすばらしいのだなと思います。

見どころはクライマックス。人っ子一人いないつむじ風の吹く大通り。じりじりと間合いを詰め、一気に戦いを制す。ここは観客先と地平線を揃えたカメラワークで、ぐーっと奥まで迫っていく画面の動きがとてもカッコいい。三船敏郎のチャンバラも、素早い動きながらどっしりとしていて、「人を殺している」重みが伝わってきます。しかしながら一方で、ただ殺すというわけでもなく、敵であろうと人間としての敬意は払うという、その一貫した姿に感動するわけです。僕個人としては「椿三十郎」より面白いのではないかと思っています。マストウォッチです。

「クレイジー・リッチ!」感想:綺麗ごとだけでは終わらない「結婚」と「多文化共生」

こんにちは。じゅぺです。

今回は「クレイジー・リッチ!」について。

f:id:StarSpangledMan:20181003224453j:image

クレイジー・リッチ!」は、苦労して大学教授にまで上り詰めた主人公・レイチェルが、シンガポール1の大富豪の息子・ニックの恋人として彼の実家にあいさつに行き、なにかと敵意むき出しの姑(予定)と女のバトルを繰り広げるロマンティック・コメディです。文化も価値観も階級も違うニックとの関係を続けるため、そして「本当のしあわせ」をつかむため、優れた機転と知性で難局を切り抜けようとするレイチェルの奮闘が見どころの作品です。

いまどきのハリウッド作品にしてはおどろくほどオーソドックスなあらすじで、90年代の香りすら漂う内容ですが、斬新なのは「全員アジア人」で作られた映画だということです。原作者はもちろんアジア系、プロデューサーもアジア系、出演者もアジア系、裏方のスタッフもアジア系。オールアジア系で作られた純正アメリカ産アジア映画が、ハリウッドで大ヒットを記録したのです。これまでハリウッド映画のアジア人といえば「ティファニーで朝食を」のユニオシみたいに差別や偏見にまみれた造形で描かれることが非常に多かった。しかし、本作はアジア系で製作陣を固め、そうしたこれまでのイメージを打破しようとしたのです。もちろん映画的なステレオタイプ中華文化圏のカリカチュアは一部からも批判されていますが、まずはこのような映画が作られ、そしてヒットしたことに意義があるといえます。アジア版「ブラック・パンサー」とも評されており、トランプ政権誕生後「分断」に揺れるアメリカ社会において、このようなムーブメントは感銘をもって受け止められているようです。

というわけで作品の背景は非常に斬新であるものの、その中身自体に新しさを期待してしまうと、少々拍子抜けかもしれません。嫁(予定)と姑(予定)のバトルは古今東西変わらないあと思います。姑役のエレノアを演じるのはミシェル・ヨー。顔面力というべきか、とにかくオーラと圧に迫力があり、常人だったら詰められた段階でひれ伏します。ブチギレて飛び蹴りかまさなかっただけマシです。ある意味彼女の圧倒的な存在感があってこそ、この映画の面白さは成り立っているとすら言えるでしょう。ヤング家に嫁たる者、家族を第一に考えずしてどうする!という信念のブレなさ。とんでもなく芯が強く、首尾一貫していて、頑固。この人にOKをもらわないかぎりニックとは別れるハメになるというのに。エレノアは道を塞ぐ岩石のようにレイチェルの前に立ちはだかります。

一方のレイチェルも負けず劣らず頑固ですね。彼女は彼女なりに自分の人生に誇りと自信を持っている。母子家庭で女手一つで育てられ、努力でここまで這い上がってきた。名家出身のニックとは対照的に、泥臭く一から積み上げて「アメリカン・ドリーム」を掴んだ女なのです。エレノアとは正反対ですね。もちろんヤング家とぶつかることになり、「自分のキャリア」と「ニックとの結婚」のどちらかを選ぶように迫られます。しかし、彼女は二つを天秤にかけるようなことはしたくないし、これまで難局を突破してきた成功体験から「がんばればどちらも手に入れられる」と考えます。レイチェルもまたエレノアのように頑固で芯が強く、諦めの悪い人なんですよね。ひとつ感心したのが、いくらヤング家の人びとから意地悪や嫌がらせをされたとしても「古くさい」考え方を頭ごなしに否定しないあたりが現代的だなということです。どこまでも平行線の意地の張り合いでも、守るべきラインは守る、他者へのリスペクトは忘れないというレイチェルの姿勢が、彼女の魅力だと思います。最終的には自らの知性を武器にガッツの強さでエレノアを降伏させるあたり、なるほどこの歳で大学教授にもなれるわと納得してしまいます。

とんでもなくパワフルな女のバトルですが、必ずしもエレノアが悪者にはなっていないバランス感覚も好きです。彼女には彼女の考えがあり、すべてヤング家にとっていいことだと思ってやっている。もちろんレイチェルも初めはエレノアの態度を単なるエゴとしか思わないわけですが、そのうち彼女にも「守るべきもの」があり、さらに過去に傷ついた経験や後悔があることもわかってきます。物語を俯瞰する私たち観客はだんだんとエレノアを応援する気持ちが強まってくるんですね。この気持ちは作中なんども裏切られることになるわけですが笑、それでもレイチェル、ニック、エレノアの全員にとってハッピーな結末にはならないのか、どうやったらこの複雑にもつれた糸を解くことができるのだろうかと、ヤキモキしながら見ることになります。徐々に、この映画は「レイチェルにとっての最適解」だけでなく「ニックにとっての最適解」「エレノアにとっての最適解」など、みんなの幸せにとってなにが正解なのかという多角的な視野が導入される仕掛けになっています。だからこそ話が進むたびに新たなスリルが訪れ、最後までワクワクしながら見ることができるのだと思います。またこの複雑な戦いを「結婚指輪」というシンプルなアイテムでまとめるのも粋ですね。うまい脚本です。

また、こうした多層的な展開の中で明らかになるのが、エレノアはレイチェルの「IF」の姿であり、逆にレイチェルはエレノアにとって「過去の自分」なのだということ。さらに(ここまで触れなかったキャラですが)アストリッドはレイチェルのもう一人の「IF」として配置されていることにした気づきます。「結婚」は、自分一人のしあわせを追い求めてもうまくいくものではありません。結婚相手、さらにはお互いの家族や友人のことも考え、しがらみを乗り越えていかなければならないのです。

さらには結婚話をきっかけとして、同じ中華系の血を引きながら、かたやシンガポールで財を成した大富豪、かたや暴力から流れてアメリカにやってきた移民という異なるアイデンティティの衝突も描かれています。特に中華文化圏にいけば「アメリカ人」と言われ、アメリカにいれば「中華系」と言われてしまう、移民たちの宙ぶらりんになったアイデンティティにもさらっと踏み込んでいて、非常にアメリカらしい世相を反映した内容になっていると感じます。

やはり全体としては古典的なロマンティック・コメディの域を出てはいませんが、アメリカに生きるアジア人の目線を通して綺麗ごとだけでは終わらない「結婚」と「多文化共生」を描いたことに新鮮さがありました。そしてアジア系の勢いの強さ、景気の良さがこれでもかと描かれていて、まるで「これからは私たちの時代だ」と宣言しているかのようです。残念ながらこの「私たち」に日本人は入っていないのですが。映画は面白かったけど、なんとなくこのバブリーな空気がまぶしく、そして寂しく感じられ、ちょっぴりしょんぼりしながら映画館を後にしました笑

日本人はバブルの時にこういう映画作ろうってならなかったんですかね。もしそんなの作っていたとしても、今見たら虚しい上に恥ずかしくて完全に黒歴史化されていたとは思いますが。

「娘・妻・母」感想:女だけに見える歪で屈折した世界

こんにちは。じゅぺです。

今回は「娘・妻・母」について。

f:id:StarSpangledMan:20181001233203j:image

娘・妻・母」は成瀬巳喜男監督の作品です。主演は原節子高峰秀子宝田明草笛光子仲代達矢など、そのほかのキャストも非常に豪華です。公開当時大ヒットしたというのも納得です。

本作は夫の死、息子夫婦の独立、財産の相続を通して、次第につながりを失っていく家族の姿を描いています。また「娘・妻・母」のタイトルの通り、家族が空中分解していく中で決断を迫られる3世代の女たちを対照的に描き分けていました。昭和に生きる女の苦悩や喜びを見つめ続けた成瀬ならではの目線と言えるでしょう。

この映画のを見ていちばんの感想は「家族といえど他人は他人」というところでしょうか。特にお金が絡むと厄介ですね。信じていた繋がりが案外もろいものだったと知るのは、裏切られたような気分になるだろうし、相当不快なことでしょう。当時の女性は一度嫁に行ってしまえば、いくら願ったところで外で働くこともできず、男や親族に頼らざるを得ません。自分の力ではどうしようもないのだから、誰かが手を差し伸べてあげなければならないというのに、この映画で女性たちが受ける待遇はずいぶん冷たいものです。特にお母さんに対する仕打ちは酷いものがあります。家を手放さなければならないとなった途端、お荷物扱いです。戦後社会の家族観の変化と言うべきでしょうか、核家族化が進んだ先に待ち構える老人たちの受難がここに描かれています。もう現代に姥捨山はありませんから。育ててきた子どもたちに邪魔者扱いされながら生活するなんて、これほどの生き地獄はありませんね。

原節子演じる早苗は、ある意味そんな自分の未来すら達観して、すべて諦めて受け入れているかのようです。愛した夫の代わりに新しい夫を探すなんてことはしたくない、そうは言っても、いい仕事もそれほどない。当時は女の選べる道が少なすぎたんですね。ただ普通に生活したいだけなのに、どこかで男の影がちらつかざるを得ない。そういう女にしか見えない歪で屈折した景色を描けた成瀬巳喜男って、やっぱりすごいと思います。

娘・妻・母」から約60年、2018年の現代も、女性の見る景色は、男と女のヒエラルキーで歪められています。成瀬巳喜男の映画は変わらずその魅力を放ち続けていますが、いつまでもこの映画の社会的背景を「古臭い」と言えないまま、何も変わっていないのは、なんとも残念なことだと思ってしまいますね。

「ザ・プレデター」感想:懐かしの80年代感ただよう娯楽作

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ザ・プレデター」について。

f:id:StarSpangledMan:20180924171555j:image

僕は「プレデター」シリーズは第1作の「プレデター」しか見ておらず、それほど熱心なプレデターファンでもありません。しかし、いまどきのハリウッド映画にしては珍しく、悪趣味な人体破壊描写とノリで2時間突っ走るというなかなかパワフルな作品でした。

見どころは、ロクでもないけど根はいい奴らとプレデターの死闘でしょうか。とにかくプレデターと戦うことになるチームのメンガーがいいんですよね。なによりキャラが立っています。どうしようもないことばかり思いつくちょっぴり頭のネジが飛んだ連中ですが、即席のチームなのに仲間への思いやりも強く、憎めません。たいした取り柄があるわけでもない軍人たちが、まるで自分の価値を証明するかのように命をかけて戦いに挑むさまに胸が熱くなりました。しかし、彼らのキャラが立っているぶん、プレデターの影が薄くなっている印象は否めません。一応プレデターが主役のはずなんですけどね。

そしてお楽しみはR指定の残酷描写でしょう。首が飛び、手足はもぎれ、気持ちいいほど景気よく人が死んでいきます。ピタゴラスイッチばりに効率よくいっぺんに人間の首が吹っ飛び、ついでに車も大爆発するシーンは思わず笑ってしまいました。人が残酷に死ぬさまを楽しむ朗らかさ?がこの映画にはあります。

ただ、笑いが多めなので、溜めや緊張感に欠け、少々食い足りなさは残ります。あとじっくり見たいところをかなり軽く飛ばしたりするんですよね。仲間が死ぬところなんであっけなさ過ぎますよ。プレデターが直接手を下すわけではなく、ほとんど事故のように死んでいくのも残念です。どうせならプレデターの残忍さをまざまざと見せつけられて絶望したかったところ。見た後なにも残らない感じは。ある意味懐かしいかもしれません。腹八分目みたいな映画です。

「クワイエット・プレイス」感想:良くも悪くも一点突破のワンシチュエーション映画

こんにちは。じゅぺです。

今回は「クワイエット・プレイス」について。

f:id:StarSpangledMan:20181001233230j:image

クワイエット・プレイス」は、静寂に支配された人類滅亡後の世界を描くホラー映画です。「音を立てたら即死」というキャッチーな宣伝文句の通り、この世界では音に過剰に反応する盲目の宇宙人が地上を支配していて、残された人類はしゃべることも許されず、全く音を立てないことで生き抜こうとしています。この無音かくれんぼみたいな設定は「ドント・ブリーズ」を彷彿とさせ、じっさい恐怖の演出も似たようなところはあるのですが、「クワイエット・プレイス」は、家族が絆を確かめるサバイバル映画としての色が濃いかもしれません。

ホラー映画としては、最初から最後まで極度の緊張感が持続して、息つく暇もありません。特に前半は突然音がなるビックリ系の演出も多く、見終わった後はかなりの疲労感がありました。この手の演出が苦手な人には結構キツいかもしれませんね。

ただ、丁寧に作り込まれている一方、ワンシチュエーションものとしてはひねりがなく、すこし物足りなく感じます。「音を立てたら即死」というテーマから連想される以上の展開が起こらない。オチにつながる伏線もバレバレなわりにはなかなか回収されず、フラストレーションが溜まりました。ホラー映画って、やはり「ドンデン返し」をどこかしらで期待してしまうものではないですか。その気持ちは裏切られてしまったかな〜と思いますね。その点、「ドント・ブリーズ」は、良くも悪くも後半の展開は予想外で(おかげで軸がブレている気がしなくもありませんが)楽しめました。

というわけで「音を立てたら即死」というテーマは楽しめたものの、映画館を出たら何も残らないという、なんとも微妙な映画でした。ちょっとガッカリだったかな。