映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「ファントム・オブ・パラダイス」感想:喜怒哀楽の交差するステージで

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ファントム・オブ・パラダイス」について。

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ファントム・オブ・パラダイス」は、オペラ座の怪人ファウストを元にしたロックミュージカル映画です。監督は「ミッション:インポッシブル」等での馴染みのブライアン・デ・パルマ。彼のフィルモグラフィーの中でもカルト的人気を誇る作品です。たしかに結構クセが強いですね。そこそこ見る人を選ぶような気がします。ハロウィンの仮装みたいな風貌の怪人やロック音楽が独特の臭いを放っていて、隣で見ていた僕の家族は拒絶反応を示していました。なんとなくわかります。

お話は、愛に渇望する怪人と、悪魔と契約した孤独な男と、夢のために自分を売った女、そして人の死すらエンタテインメントとして熱中する観客たちを冷ややかな目で見つめ、やがて取り返しのつかない事件に発展していく様を描いています。

誰も幸せにならない話なんですが、特にスワンから受けた不当な扱いの末、気が狂ってしまった音楽家・ウィンスローが悲惨です。もともと友だちが多いわけでもなく、挙動不審で明らかに「モテない」タイプの彼は、舞台女優志望のフェニックスちゃんに片想いをしてこじらせに拍車をかけてしまいます。フェニックスちゃんは歌もうまいし可愛いので気持ちはわかります。正直、はじめから二人が深い関係になるようには思えませんが、スワンの策略によって仲を引き裂かれ、さらには不慮の事故によって怪人の姿でしか生きられなくなったことによって、ウィンスローのフェニックスちゃんへの渇望感はさらに大きなものになります。彼は自分がフェニックスちゃんに見向きもされず、全く日の目を浴びないのは、ぜんぶスワンのせいだと思い込んでいるのですね。それは正しくもあり、間違ってもいるのですが、スワンの残酷な仕打ちによって、彼の中で世間の喝采とフェニックスの愛への執着は肥大化し、心を蝕んでいきます。フェニックスちゃんのセックスを覗き見する彼の悲痛な叫びは忘れられません。

承認に飢えた男が、声を奪われ、顔を傷つけられ、最後に心まで殺される。本当に悲惨です。憐れです。情けないです。そんな彼がフェニックスちゃんのためにステージに乗り込む姿は泣けます。最後まで自分が幸せになれると信じていたんですね。

しかし、実のところウィンスローだけが被害者なのではなく、スワンとフェニックスも欲を満たすために悪魔に自由を売っていたんですよね。どこにも逃げ場はないのです。どこを向いても地獄です。ただでさえサイボーグ化したウィンスローの設定がへんてこりんなのに、悪魔との契約も登場するので見ていて頭が混乱しました。最初は現代劇かと思って見ていましたが、これが想像以上にファンタジーなんですよね。ここにロックミュージカルが混じってくるので、本当になんでもありです。

この闇鍋感とテンションがマックスに到達するのが、クライマックスです。たくさんの人間が入り乱れ、呪われた男たちが次々と命を落とすステージは本当に興奮しました。なにがなんだかさっぱりわからないカオスな空間です。原色が刺激的な安っぽい衣装に、サイレント映画のようなうすっぺらい奥行き、そして毒々しい音楽。舞台の狂乱に頭がクラクラしました。もはや喜怒哀楽がグチャグチャに混線して誰にも整理できなくなってしまうわけです。本当にこの世は地獄ですね。そしてわけわからんテンションのままエンディングに突入します。

前半はちょっと退屈だし、お話のエンジンがかかるのも遅いのですが、クライマックスの熱と狂気ですべてのモヤモヤが吹っ飛びます。あのテンションは天才ですね。すばらしい音楽映画でした。

「あ、春」感想:家族ということばの意味

こんにちは。じゅぺです。

今回は「あ、春」について。

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「あ、春」は、倒産間近の証券会社で働く紘のもとに幼い頃に死んだはずの父が突然現れたことで起こる騒動を描くヒューマンドラマです。監督は「セーラー服と機関銃」や「台風クラブ」の相米慎二。トンがった青春映画を撮ってきた相米監督ですが、これはすこし毛色が違いますね。しかし、根本の部分では挑戦的な作品であると思います。

豊かなはずなのに余裕のない息子と、文無しのくせに余裕すぎる父。性格も正反対で反発しあいながら、それでも父の姿を見てしまう紘の複雑な気持ちに触れます。この対比がコミカルで楽しいのです。

また、再会の唐突さと、ふたりの相反する性格に「本当にこの人たちは血の繋がった親子なのか?」という疑問がふつふつと湧いてきて、見る者の興味を引っ張るサスペンスも生んでいます。

佐藤浩市の疲れ切った生真面目なサラリーマン感と、山崎努のちゃらんぽらんなダメ男感がとてもしっくりきて、面白かったですね。そして性格は正反対だけど、どちらも浅黒くてゴツゴツしている。見た目が似ているからというわけではないが、この体の感じが不思議と親子であることを納得させてくれる気がします。

で、結局この二人は血の繋がった親子ではなく、絋の「本当の父親」は別にいることが発覚します。せっかく戸惑いながらも父親を受け容れ、失われた時間を埋め合わせていく決心が付いていたのに、水を差す話です。ここでいちど収束しかけたストーリーはふたたび拡散します。そうと分かれば、これまで溜め込んでいた不満や後悔も爆発します。絋と父親の関係に混乱が訪れるのです。

この映画は終始絋の目線で進んでいますが、父親から見てもこの物語は悲劇です。血を分けた自分の分身だと思っていた男がじつは他人だったんですから。つねに淡々として内心どう思っているのかはわかりにくいですが、真相を知るまでの言動と話を聞いてぶっ倒れてしまったことを思うと、そのショックの大きさは相当なものだったことでしょう。

じゃあこのままで終わるかというと、そんなはずはありません。最後に行き着くのは、血が繋がっていようがいなかろうが父親は父親だということなんですね。大事なのは、一緒に過ごした時間だったり、なにを受け継いでいくのかなのです。血が繋がっていても愛情のない親子なんてごまんといることでしょう。一度離れかけた親子の絆がこれまで以上に強くなる夕日の屋上のショットは、あまりに美しくて息を飲みました。西新宿の高層ビル群を眺めながら、見舞いにやってきた息子と車いすの父が思い出の歌を口ずさむ。思い出すだけで熱いものが込み上げてきます。相米慎二監督らしい、完璧な構図のロングショットで、本作屈指の名場面でした。

去年までの常識すら「古臭い」考えになってしまうぐらい目まぐるしく価値観がアップデートされていくこの世の中において、「家族」ってなんなのだろうと考えてしまいます。血が繋がってなくてもいい。相手は同性かもしれないし、ペットでも、ぬいぐるみでも、ゲームの中のキャラクターでもいい。なんなら家族なんていらない、一人で過ごすという選択肢もあります。映像作品でもそういうテーマを扱ったものが増えてきました。じゃあそこに共通する「家族」の要素って何でしょうか。ことばが抽象的なので定義は人によって違うかもしれませんが、それでも、最小公倍数的な「家族」の核となるものがあるんじゃないか、そう思えてなりません。映画とは関係ありませんが、「あ、春」はそんな思いを巡らせるいいきっかけになりました。傑作です。

 

「L♡DK ひとつの屋根の下、「スキ」がふたつ。」感想:もねねん同棲疑似体験エンタテイメント

こんにちは。じゅぺです。

今回は「L♡DK ひとつの屋根の下、「スキ」がふたつ。」の感想です!!

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「L♡DK ひとつの屋根の下、「スキ」がふたつ」は人気少女マンガ「L♡DK」二度めの実写化作品です。監督も前回と同じ川村泰祐。ちょっと前からこのジャンルは映画化できる原作が枯渇したあることはささやかれていましたが、露骨に同じ原作を持ってくるとは思いませんでした。前作が5年前なので主要客層も一巡したし、流行りの俳優使えばなんとかなるだろうという考えが透けて見えます。僕も公開初日に女子小中学生に囲まれながら鑑賞しましたが、そもそも前の実写化がキッカケで「壁ドン」が流行語になったり、山崎賢人がスターになったことも知らないんだろうなと思いました。そういう思い出でマウントを取り始めたら、いよいよおっさんマインドですね。

 

少女マンガ映画のヒロイン起用について

本来、この手の映画は「女の子目線」で見るものであり、ターゲット層からしてもヒロイン目当てで見る客は少ないと思います。だからイケメン役は中高生に人気のある男性モデルやジャニーズなどのアイドルが務めるし、ヒロインもSeventeenあたりの観客と同世代のモデルだったり、同性ウケのいい女優を起用する傾向があると思います。そう考えると、本作の上白石萌音ってちょっと謎なんですよね。たしかに「君の名は。」で一躍有名になりましたが、かといって少女マンガ原作映画のヒロインとして真っ先に名前が上がるような候補かというと微妙です。意外性でいうと「オオカミ少女と黒王子」の二階堂ふみに近いかもしれません。キャピキャピした若さよりは、手堅い演技力で勝負するタイプです。その点で考えると、この起用は大正解でした。

 

上白石萌音のヒロイン力

結論から言うと、上白石萌音ベストアクトだったと思います。彼女の魅力が遺憾なく発揮されていました。まず、上白石萌音って、妹な萌歌と比べてもちょっぴり地味なんですよね。いわゆる生徒会長タイプ的な生真面目さが漂っています。年のわりに落ち着いた声と話し方の印象が強いんですよね。今回彼女が演じる葵はまさしくそういうキャラクターでして、配役的にもぴったりだったと思います。

僕的にツボだったのは男子二人との身長差。壁ドンがとても映えるんです!この小ささがとってもいいんですね。友人役の高月彩良もそこそこ背が高いので、余計に差が強調されていたと思います。照れたり甘えたりするときの伏し目もかわいいですね。あの大きな瞳はスクリーンでとても映えます。

あと、高校生同士の「同棲」っていう設定もいいですね。イチャイチャしながら料理つくったり、カーテン隔てて雑魚寝したり、ワクワクするシチュエーション多数です。本記事のサムネにもしていますが、横ならびで歯を磨く場面なんて特に愛おしかったです。「高校卒業まで性交禁止!」なんて書いてある部屋で高校生男女が同棲するなんて、結構生々しい感じになりかねませんが、そこらへんは上白石萌音の「真面目」オーラでうまく抑え込んでました。キスやハグも多いですが、あくまでプラトニックな関係なのだと納得させるバランス感覚は、やはり上白石萌音の女優としてのセンスなのだと思いました。

 

杉野遥亮 vs 横浜流星

そんな葵=上白石萌音を取り合うのが、柊聖=杉野遥亮と、玲苑=横浜流星の二人。どちらも若い女の子には大変人気があるようです。お話の中では杉野遥亮の方に軍配?が上がりますが、スクリーンの中の存在感は横浜流星が圧倒的に優っていたと思います。強気ながら優しさの見え隠れする不器用さがなんとも可愛い。まわりの女子中高生も発狂してましたよ。僕も一緒に声をあげたくなりました。彼のことは「初めて恋をした日に読む話」で初めて知りましたが、こちらのドラマでも似たような役(ゆりゆり!)を演じていましたね。髪の色も似てます。

おぼつかない演技だな〜と思うことも多々あり、カタコトの英語で「帰国子女」感出してるところなんて最初思わず鳥肌が立ってしまいましたが、途中からギャグ扱いになっていたので安心しました。作品のテンションがわからない中であの笑いをぶっこまれても困ってしまいますよね。てっきり本気であの英語でアメリカ帰り設定を語るつもりなのかと思いましたよ。まあ、そこらへんのダサさもひっくるめて「可愛い」と思えてしまったら全部勝ちです。「逃げるは恥だが役に立つ」のみくりさんも言ってましたよね。もう横浜流星はそういう愛嬌がある点で最強だったと思います。

一方、残念ながら杉野遥亮は華やかさが足りないと思いました。滑舌も悪いし。当て馬役の横浜流星に完全に負けてます。横浜流星に比べて演技経験も少ないようで、ちょっと表情も硬かったかな〜と思います。葵とアメリカどちらを取るかで揺れ動くというよりは、なに考えてるのかわかりませんでした。葵の浮気を疑うところも、無表情なせいで少し怖かったですし。あそこは悲壮感漂わせた方がその後の展開にタメが効くと思うんですけどねえ。

 

愛のために夢を諦める?

ここまでキャスト中心に褒めメインで語ってきましたが、ストーリーや演出、音楽は安っぽかったかなあと思います。そこらへんはやはり廣木隆一監督や月川翔監督など、ある程度作家性に裏打ちされた演出家の技にはかないませんね。テレビ出身の演出家だとやはりスクリーンでは限界があります。たとえば柊聖が雨の中走りまわって車で応援しにきた兄と立ち話する場面や、クライマックスの文化祭のステージの場面は、見せ方としてちょっとマヌケなんじゃないかと思ったりしました。カメラを置く位置もテキトーだし、俳優の顔も見えにくいし。意図を計りかねる演出も多かったです。

葵と柊聖と結ばれるオチも、少々物足りなさが残ります。葵を選んでアメリカを諦めるというのは、愛の強さの証明なのかもしれませんが、僕にはどうにも夢を捨てているように感じられて。どうせなら両方手に入れるオチにしてほしかったです。たとえ中高生が見る映画だとしても、ちょっと幼いんじゃないでしょうか。これもベタかもしれませんが、愛の強さが確認できたなら離れ離れでも大丈夫じゃないか!と思わなくもありません。

最後の最後でガクッとずっこけちゃう残念なオチがつきましたが、甘えまくる上白石萌音が見られただけで元は取れたかなと思います。妹の方はこの手の映画に出るんでしょうかね?

「アメリカン・グラフィティ」感想:特別な高揚感と熱気に包まれた「最後の夏」

こんにちは。じゅぺです。

今回は青春映画の金字塔とも言われる「アメリカン・グラフィティ」について。

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アメリカン・グラフィティ」は、旅立ちを控えた若者たちの一晩を取りとめもなくつづる青春映画です。監督はジョージ・ルーカス。タイトルの通りグラフィティ(落書き)のように、荒削りのスケッチで4人の少年を軸にした群像劇を描いています。

ジョージ・ルーカスといえば「スター・ウォーズ」シリーズですよね。「アメリカン・グラフィティ」は「新たなる希望」より前に製作された作品ですが、ルーク・スカイウォーカーの冒険の原点ともいうべき内容になっています。

高校を卒業し、新しい生活を目前に控えたカートたちは、愛車に乗って地元の街を当てもなくさまよいます(アメリカの高校生の青春には車があって羨ましいです笑)。僕は彼らの気持ちが痛いほどわかるんですよね。いつまでもこの時間が続くようで落ち着かない。どこか遠くへ飛び出せたらいいのにと身体中が疼く感覚。落ち着きのない彼らの行動は、田舎のせまっ苦しさと、彼らの外へ外へと肥大化していく気持ちの表れだろうと思います。夜中に街に繰り出すだけで特別な高揚感と熱気を感じていた少年時代最後の夏。ここには、喉から手が出るほど欲しくても、今では絶対に手に入らない喜びがありました。

これって実は「新たなる希望」の冒頭と全く同じなんですよね。タトゥイーンに暮らすルークは、いつか農場を出て学校で勉強をしたい親代わりの叔父さんと叔母さんに繰り返しお願いをしていました。なにもない砂漠での生活に飽き飽きし、自分の本当の居場所はここではないはず、もっと広い世界に羽ばたけるに違いないと熱い想いを胸に秘めているのです。しかし、地元の縛りは想像以上に強く、夢は叶わないかもしれないと半ば諦めています。そんな時に彼が遠い目をして二つの夕日を眺めるシーンは映画史に残る名シーンです。溜まり場といえばカビ臭いゲームセンターと薄暗いダイナーしかない地元をぐるぐると気持ちを紛らわすかのように回り続けるカードたちの姿は、タトゥイーンの青年と重なります。「ここではないどこか」への強い願望を抱く田舎の少年というテーマをこの2作は強く押し出しているのです。

しかし、ルーク・スカイウォーカーが「帝国の逆襲」で自らのルーツを知り絶望したように、カードたちが無垢でいられたのもこの夜が最後でした。この映画には旅立ちのウェットな感じはないけれど、朝焼けをバックに集うレースの参加者たちと、そのあとの飛行場の場面で、胸の奥が痛む感覚があります。こんな日々は絶対に続かないという予感があるのです。なぜなら、僕たちはこれから彼らを待ち受ける未来に、こんな清々しい青空が広がることはないとわかっているから。あの空は「この頃」の人間にしか見られない景色なのです。

アメリカン・グラフィティ」は、もはや手の届かないところに行ってしまった純粋な時代のお話です。エンドクレジットに入る「それから」のお話と、ザ・ビーチ・ボーイズの「オール・サマー・ロング」によってそのことに気付かされます。これは極めて個人的な映画だけど、同時に「アメリカ」の話でもあると思います。「ベトナム戦争」の文字が重く迫り、鑑賞後に凄まじい余韻が残ります。大傑作です。

「すてきな片想い」感想:なぜ80年代のハリウッド映画は輝いているのか

こんにちは。じゅぺです。

今回は「すてきな片想い」について。

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すてきな片想い」はモリー・リングウォルド主演の青春映画です。監督はジョン・ヒューズ。家族に置いてけぼりにされたサマンサの17歳の誕生日の一夜を描きます。

すてきな片想い」は、「アメリカン・グラフィティ」や「待ちきれなくて…」そして「バッド・チューニング」の系譜に位置付けられる作品と言えます。毛色は違いますが、「夜は短い歩けよ乙女」も大学生の1年間を一夜のできごとに仮託している点で、この手の「ワンナイトもの」の作品と言えるかもしれませんね。

この映画を見て思ったのは、やはりM・リングウォルドの顔って良いなあということです。長谷川町蔵さんあたりがよく言っていますが、彼女は80年代顔の代表格なんですよね。自分を中心に世界がまわる高校生活、自由を満喫しながら、それでも自分を理解してくれない家族や友人に対する鬱憤を抱えている。モリー・リングウォルドは、そんな贅沢なジレンマを抱える、豊かな古き良き中流の象徴なのではないでしょうか。

当時のアメリカは世界一の超大国で、向かうところ敵なしでした。ベトナム戦争の実質的な敗戦という挫折を経験しながらも、70年代の退廃的な空気感は薄れ、より開放的で能天気な時代に突入していったのが、80年代のアメリカなのではないでしょうか。僕は当時産まれていないので、歴史の教科書で触れた知識を元にそう考えているだけですが。少なくとも、ハリウッド映画の流れでは「アメリカン・ニューシネマ」から「スター・ウォーズ」への歴史的転換がありました。あくまで現代日本に暮らす一人として、僕はそのように解釈しています。

そういう時代背景においてこそ、キラキラと輝く明るい未来が見えているのに、なぜだか自分の将来だけは暗く絶望的に見えてしまうという高校生たちの悩みは成立しています。だから、成長の限界が見えてしまい、アメリカが「追われるもの」の立場になってしまった現代では、こういうお話は作れないのではないでしょうか。のんきで明るい80年代カルチャーと空気感は大好きですが、どこかが心の奥で「もう帰ってこないもの」だと切なくも認識してしまうのは、世界は常に良い方向に進み続けるんだと信じる「純粋さ」を失ってしまったからではないかと思います。

「純粋さ」で言うと、話は少しズレますが、アンソニー・マイケル・ホールの童貞感も非常にすばらしかったですね。女の子を前にすると途端に余裕を失ってアワアワしてしまうのが可愛い。「ブレックファスト・クラブ」よりもコメディ色が強く、僕は本作の彼の方が魅力的に感じました。

ジョン・ヒューズの映画は、自分があの頃抱いていた(と言ってもそんなに昔ではないですが)感覚をフレッシュに思い出させてくれます。「ブレックファスト・クラブ」「フェリスはある朝当然に」「すてきな片想い」あたりだけ見てるけど、どれも本当の高校生の目線で世界を切り取っているんですよね。すくなくとも自分は「こんなこと考えてたかもな」と毎回思わされます。高校生の頃は自分も意味もなく不安を感じていました。そういうフレッシュな感情を、どうしてジョン・ヒューズというおっさんはあんなにも親身に受け止められたんでしょうか。きっと彼もまた「高校生の目」を持っていたんだと思います。

次は「プリティ・イン・ピンク」を見ようかなあ。

「運び屋」感想:いつだって人はやり直せる?

こんにちは。じゅぺです。

今回はクリント・イーストウッド監督の最新作「運び屋」です。

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「運び屋」は、いつでも仕事を最優先だった孤独な男が麻薬の運び屋業をはじめ、やがてこれまでの人生で失ったものを気づくまでを描くヒューマンドラマです。

 

イーストウッドの集大成

イーストウッドの飄々とした佇まいがとても新鮮で印象的ですが、より重要なのは、本作はこれまでのイーストウッドの集大成的な作品にもなっていることです。古くさい老人の目線を通して浮き彫りになる男らしさや人種差別の問題は、彼の作品で何度も描かれてきた問題です。朝鮮戦争を経験した元帰還兵という設定や実の娘の起用(親子仲はとてもいいそうです)は自己言及的ですし、「アメリカの英雄」と前時代的なマスキュリニズムの密接な関係は「アメリカン・スナイパー」や「15時17分、パリ行き」の中心的テーマでした。しかし個人的にハッとさせられたのは人種問題です。「グラン・トリノ」ではアジア系の青年と老人の絆が描かれていましたが、本作はより「現代風」のアプローチ、もっと言えば時事的な話題を採用しています。流暢なスペイン語も操るアールのメキシコ人との交流は、共産党支持者で有名なイーストウッドがはっきりとトランプの差別主義に「NO」を突きつけているとも取れるのではないでしょうか。ますます低下していく白人男性の権威と、それに比例して存在感を増していく「マイノリティー」たち。この映画における彼らの扱い方は決して素直ではなく、変われない自分を慰め、過去の栄光を懐かしむ懐古趣味的な匂いも漂います。カビ臭い自分を俯瞰しているかのような余裕は、見る人によっては神経を逆撫でされるのではないかと思いますが、それでもイーストウッド作品を好んで見る層がこの問題に真正面から触れるということ自体が、大事ではないのかとも思うのです。自分が日本に暮らす人間なので悠長なことを言ってしまいましたが、アメリカ本国でどう議論されているのか気になります。

 

人は簡単に変われない

映画とは関係ない個人的な話ですが、そろそろ社会人になって1年が経ちます。振り返ってみても長いような、短いような。あまり成長できていない気もするけど、密度の濃い1年でした。たくさんの発見がありましたが、中でも強烈だったのは、絶対に考え方の合わない人がこの世界に存在するという発見でした。これまで同質性の高い「学校」という空間で暮らしてきたので、さまざまな世代や考え方の人が働く「会社」という組織はとても不思議で、時にストレスフルなものでした。もちろん頭では「自分と同じ考え方の人がいる」なんてことはわかってましたし、ある程度のズレやすれ違いを感じることはありましたが、比較的幸運だったのか、あまり極端に合わない人とは出会ってきませんでした。

でも、会社にいるようなひと回りもふた回りも上の世代の人や、コッテリとサラリーマン文化に染まった人って、正直全然発想が違ったりするんですよね。コンプライアンスの研修を受けた後で「いまはうるさい時代になったから下手なことは言えんな、ガハハ!」みたいに笑う人もいます(なにが面白いのかさっぱりわかりません)し、昭和のモーレツ社員みたいな価値観を押し付けてくる人もいます。

こんな出会いや関わりを通して気づいたのは、「人って簡単には変われない」ってことです。大人になると頭が硬くなるとか、価値観の凝り固まった老人を老害と呼んだりしますが、それも仕方ないのかなと思うことが時々あります。いくら「世の中には男でも女でもない性自認の人がいる」と耳で聞いても、「女は男を立てるものだ」「男は強くあるべきだ」という考え方で何十年も生きてきた人が、そう簡単に価値観を変えられるとは思えません。もちろん、柔軟に時代の流れに寄り添える人もたくさんいますけど、やっぱりある程度まで行くと変化って止まるものだと思います。時に「古臭い」考え方の人間にとって「新しい」考え方を受け入れることは、これまでの人生の全てを否定しなければならない(と本人が感じる)ことに繋がることだってあるでしょう。おそらく人類の歴史上もっとも時間の流れが早く、変化もめまぐるしいこの時代は、一部の人にとってはとても生きづらいはずです。「昔は良かった」で押し通す図太い人間も多くいるでしょうけど。政府がどれだけマイノリティのエンパワメントに力を注いでも、人々がジェンダーの呪縛を破壊しようとも、その流れに取り残される「古い考え」の人たちはいると思います。でも、だからといって変わらない彼らが悪者だとも思えないんですね。僕だって今はがんばって新しい考え方を取り込もうとしているけれど、いつのまにか「老害」の側に回っていることだってあるかもしれません。価値観や常識というのはどこまでもそういうものであり続けるのだと思います。

 

彼の変化は「本物」なのか

映画の話に戻りますが、「運び屋」もそういう「変わらない人」を描いているのではないでしょうか。しかも主人公のアールは90歳です。そんな歳にもなれば、そう簡単には変われないことは明らかです。アールははっきりと「時代遅れ」の人として描かれています。たとえ家族が離れていっても、一切反省の色を見せず、仕事に打ち込む男です。でも、社会は変容していきます。インターネットの普及でアールの農場は資金繰りがうまくいかず、まるごと銀行に差し押さえられてしまいました。昔の過ちは取り返しがつきません。孫の学費を払ってあげたって、失われた娘との時間が戻ってくるわけではないのです。アールにはそれがわかりませんでした。

しかし、死がちらつき始めた今、なにか区切りをつけなければならない、いつまでも「失敗した父、夫」ではいられないという想いが、徐々にアールの中にも芽生えていくのです。もしかしたら彼の変化は昔ながらの「男としてのプライド」ゆえの行動かもしれません。老人特有の肩の力の抜けた軽さと愛嬌を見せるアールですが、家族の前ではとたんに張り付いた表情を見せます。最後は大胆な行動で「新たな一歩」を示す彼も、もしかしたら根っこの部分では変われていないのかもしれません。ただ、彼は「家族」を愛せなかった、という後悔だけは自覚するようになります。そして、ある種の背徳感を抱えたまま、仕事人としてのプライドを胸に、彼は麻薬を運び続けます。白い土の大地を走りながら彼はなにを思っているのでしょうか。

 

「人は簡単には変われない」ことがこの1年の気づきだと言いました。じゃあこのアールはどうなのでしょう。人によって見方は変わるかもしれません。アールは妻への愛を自覚し、家族との絆を取り戻したと解釈することもできるだろうし、妻の最期を看取ったことは、たとえ家族が喜んだとしても自己満足でしかないというシビアな捉え方もできるでしょう。ファーストカットとラストカットの円環構造、結局アールは孤独に花を摘むしかないのだというオチをどう捉えるかにもよるかもしれません。ちなみに今の僕の考えは先ほど書いた通り「変わってない」です。最後までアールと家族たちの温度差を感じずにはいられれませんでした。そのうちまた見方変わるのかな?

「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」感想:狂気とユーモアの悪夢世界

こんにちは。じゅぺです。

今回はちょっと変わり種のラトビア産アニメ「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」について。

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「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」は、精神疾患の家系に生まれた5人の女性の物語を描くアニメーション映画です。実は結構前から気になっていた作品でした。2015年のEUフィルムデイズで「ソング・オブ・ザ・シー」を見たとき、次の回に上映していたのが、この映画だったんですね。その時はハシゴも面倒だしな〜と思ってスルーしたのですが、それ以来見逃したことを後悔していました。最近やっとVimeo等の動画サイトで日本語字幕バージョンがレンタル可能になり、今回の鑑賞に至った次第です。ちなみにこの日本語字幕は作品に惚れ込んだ有志が自ら作成したものを公式が採用したものだそうです。奇跡に近いことですね。本当に訳者の方には感謝です。

お話を作品内容に戻しましょう。本作は、女として生きることの重圧と苦しみに喘ぎ、狂気と過敏の内面世界に沈んでいく様を、おぞましくもユーモラスなアニメで表現しています。彼女たちの頭の中をめぐるグチャグチャに混乱した世界が、素朴な手書きタッチのアニメーションと精巧な実写セットの組み合わせによって描出されていて、非常に独特の印象を与えます。熱にうなされているときに見るような悪夢的ビジュアルは、見る者の心まで蝕み、引っ掻き回してボロボロにしそうです。

一方、物語は、監督の人格と一体化した物語のナビゲーターとして、主人公・シグネがそれこそ病的なまでの密度で語られます。時代に翻弄された祖母のアンナ、才気あふれる芸術家のミランダ、高慢な医学生のリンダ、寡黙な教師のイルベ、そして主人公のシグネ。5人のそれぞれの苦しみが、コミカルで辛辣な語り口を通して描かれます。残念ながら、この過剰なまでの語り口が、幻夢的なアニメーションの良さを削いでしまっている気がしなくもありません。

5人の人生の中でも、特に主人公のシグネとその祖母のアンナが中心に描かれているのですが、彼女たちはそろって結婚、妊娠、出産、子育てをキッカケに心を病むようになります。ラトビアの女たちには生まれた頃から女としての社会的なプレッシャーや束縛が絡みついていて、自由に人生を送ることのできない絶望が心身を蝕んでいくのです。ここは日本もラトビアも変わりがないなと思います。どの時代も男たちは身勝手で、女の心と体に無関心な存在として描かれています。

アンナの家系の女たちが揃って悲劇的な最期を迎える中、シグネは最後まで現実にしがみつき続けます。「ポケットの中の石ころ」を亡き祖母に託す彼女は、もはや自殺願望を捨て、現実の痛みを受け容れる準備ができているのです。おぼろげながら現れた混沌から抜け出す道筋に、人生の希望を感じます。極めて内省的な作品で、ほとんど「自分語り」の本作。彼女の精神病のルーツを辿る旅には、あまり普遍性がないのですが、それでも彼女が最後に見つけた絶望の中に射す希望の光には、まだ諦めてはダメだ!という力強いエールを感じ、非常に勇気をもらえます。

ところで、彼女たちの人生にはソ連ナチスに蹂躙されてきたラトビアの歴史も密接に絡んでいます。バルト三国の歴史なんてほとんど知りませんでしたが、大国の間に挟まれて、長い間苦しい時を過ごしてきたようです。この歴史と文化の混乱の厚みが、もしかしたら映画のような芸術にも影響しているのかもしれませんね。