映画狂凡人

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「運び屋」感想:いつだって人はやり直せる?

こんにちは。じゅぺです。

今回はクリント・イーストウッド監督の最新作「運び屋」です。

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「運び屋」は、いつでも仕事を最優先だった孤独な男が麻薬の運び屋業をはじめ、やがてこれまでの人生で失ったものを気づくまでを描くヒューマンドラマです。

 

イーストウッドの集大成

イーストウッドの飄々とした佇まいがとても新鮮で印象的ですが、より重要なのは、本作はこれまでのイーストウッドの集大成的な作品にもなっていることです。古くさい老人の目線を通して浮き彫りになる男らしさや人種差別の問題は、彼の作品で何度も描かれてきた問題です。朝鮮戦争を経験した元帰還兵という設定や実の娘の起用(親子仲はとてもいいそうです)は自己言及的ですし、「アメリカの英雄」と前時代的なマスキュリニズムの密接な関係は「アメリカン・スナイパー」や「15時17分、パリ行き」の中心的テーマでした。しかし個人的にハッとさせられたのは人種問題です。「グラン・トリノ」ではアジア系の青年と老人の絆が描かれていましたが、本作はより「現代風」のアプローチ、もっと言えば時事的な話題を採用しています。流暢なスペイン語も操るアールのメキシコ人との交流は、共産党支持者で有名なイーストウッドがはっきりとトランプの差別主義に「NO」を突きつけているとも取れるのではないでしょうか。ますます低下していく白人男性の権威と、それに比例して存在感を増していく「マイノリティー」たち。この映画における彼らの扱い方は決して素直ではなく、変われない自分を慰め、過去の栄光を懐かしむ懐古趣味的な匂いも漂います。カビ臭い自分を俯瞰しているかのような余裕は、見る人によっては神経を逆撫でされるのではないかと思いますが、それでもイーストウッド作品を好んで見る層がこの問題に真正面から触れるということ自体が、大事ではないのかとも思うのです。自分が日本に暮らす人間なので悠長なことを言ってしまいましたが、アメリカ本国でどう議論されているのか気になります。

 

人は簡単に変われない

映画とは関係ない個人的な話ですが、そろそろ社会人になって1年が経ちます。振り返ってみても長いような、短いような。あまり成長できていない気もするけど、密度の濃い1年でした。たくさんの発見がありましたが、中でも強烈だったのは、絶対に考え方の合わない人がこの世界に存在するという発見でした。これまで同質性の高い「学校」という空間で暮らしてきたので、さまざまな世代や考え方の人が働く「会社」という組織はとても不思議で、時にストレスフルなものでした。もちろん頭では「自分と同じ考え方の人がいる」なんてことはわかってましたし、ある程度のズレやすれ違いを感じることはありましたが、比較的幸運だったのか、あまり極端に合わない人とは出会ってきませんでした。

でも、会社にいるようなひと回りもふた回りも上の世代の人や、コッテリとサラリーマン文化に染まった人って、正直全然発想が違ったりするんですよね。コンプライアンスの研修を受けた後で「いまはうるさい時代になったから下手なことは言えんな、ガハハ!」みたいに笑う人もいます(なにが面白いのかさっぱりわかりません)し、昭和のモーレツ社員みたいな価値観を押し付けてくる人もいます。

こんな出会いや関わりを通して気づいたのは、「人って簡単には変われない」ってことです。大人になると頭が硬くなるとか、価値観の凝り固まった老人を老害と呼んだりしますが、それも仕方ないのかなと思うことが時々あります。いくら「世の中には男でも女でもない性自認の人がいる」と耳で聞いても、「女は男を立てるものだ」「男は強くあるべきだ」という考え方で何十年も生きてきた人が、そう簡単に価値観を変えられるとは思えません。もちろん、柔軟に時代の流れに寄り添える人もたくさんいますけど、やっぱりある程度まで行くと変化って止まるものだと思います。時に「古臭い」考え方の人間にとって「新しい」考え方を受け入れることは、これまでの人生の全てを否定しなければならない(と本人が感じる)ことに繋がることだってあるでしょう。おそらく人類の歴史上もっとも時間の流れが早く、変化もめまぐるしいこの時代は、一部の人にとってはとても生きづらいはずです。「昔は良かった」で押し通す図太い人間も多くいるでしょうけど。政府がどれだけマイノリティのエンパワメントに力を注いでも、人々がジェンダーの呪縛を破壊しようとも、その流れに取り残される「古い考え」の人たちはいると思います。でも、だからといって変わらない彼らが悪者だとも思えないんですね。僕だって今はがんばって新しい考え方を取り込もうとしているけれど、いつのまにか「老害」の側に回っていることだってあるかもしれません。価値観や常識というのはどこまでもそういうものであり続けるのだと思います。

 

彼の変化は「本物」なのか

映画の話に戻りますが、「運び屋」もそういう「変わらない人」を描いているのではないでしょうか。しかも主人公のアールは90歳です。そんな歳にもなれば、そう簡単には変われないことは明らかです。アールははっきりと「時代遅れ」の人として描かれています。たとえ家族が離れていっても、一切反省の色を見せず、仕事に打ち込む男です。でも、社会は変容していきます。インターネットの普及でアールの農場は資金繰りがうまくいかず、まるごと銀行に差し押さえられてしまいました。昔の過ちは取り返しがつきません。孫の学費を払ってあげたって、失われた娘との時間が戻ってくるわけではないのです。アールにはそれがわかりませんでした。

しかし、死がちらつき始めた今、なにか区切りをつけなければならない、いつまでも「失敗した父、夫」ではいられないという想いが、徐々にアールの中にも芽生えていくのです。もしかしたら彼の変化は昔ながらの「男としてのプライド」ゆえの行動かもしれません。老人特有の肩の力の抜けた軽さと愛嬌を見せるアールですが、家族の前ではとたんに張り付いた表情を見せます。最後は大胆な行動で「新たな一歩」を示す彼も、もしかしたら根っこの部分では変われていないのかもしれません。ただ、彼は「家族」を愛せなかった、という後悔だけは自覚するようになります。そして、ある種の背徳感を抱えたまま、仕事人としてのプライドを胸に、彼は麻薬を運び続けます。白い土の大地を走りながら彼はなにを思っているのでしょうか。

 

「人は簡単には変われない」ことがこの1年の気づきだと言いました。じゃあこのアールはどうなのでしょう。人によって見方は変わるかもしれません。アールは妻への愛を自覚し、家族との絆を取り戻したと解釈することもできるだろうし、妻の最期を看取ったことは、たとえ家族が喜んだとしても自己満足でしかないというシビアな捉え方もできるでしょう。ファーストカットとラストカットの円環構造、結局アールは孤独に花を摘むしかないのだというオチをどう捉えるかにもよるかもしれません。ちなみに今の僕の考えは先ほど書いた通り「変わってない」です。最後までアールと家族たちの温度差を感じずにはいられれませんでした。そのうちまた見方変わるのかな?