映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「きみの鳥はうたえる」感想:徹夜明けの朝の生暖かい淀み

こんにちは。じゅぺです。

今回は「きみの鳥はうたえる」について。 

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正直、「きみの鳥はうたえる」にはそれほど期待していなかったのですが、非常にすばらしい作品でした。今年のベストに入る一本です。うれしい誤算でした。

本作は函館を舞台に生きる3人の若者のふらふらと浮遊する毎日をスケッチした青春グラフィティです。主演は柄本祐と石橋静河染谷将太の3人。「この夏がいつまでも続く気がしていた」とは冒頭の「僕」の言葉ですが、3人のいつまでも続くようでいて、いつしか終わりを告げる青春の日々がみずみずしく切り取られています。

鑑賞後の余韻がすごくて、いったいどころから語り始めればいいのだろうか戸惑ってしまったというのがまず率直な感想です。ある意味ではつかみどころのないお話かもしれません。「僕」や静雄にとって、変わらない平凡だった毎日に現れる佐知子。静雄とルームシェアしていたところに、「僕」と付き合い始めた佐知子が転がり込んでくるというシチュエーション。これだけで「安定」から「不安定」に移り変わるサスペンスが予感されます。「終わらない夏」を信じていた「僕」の毎日に一人の女性が入り込んでくるというだけで、それは一つの事件なのです。しかし、「僕」と佐知子が本屋では働き、たまに家でいちゃつき、一方、静雄はハローワークで求人を探すという日々のルーティーンは変わらない。どこかに変化や破滅が訪れるのではないかという不安をあおりつつ、将来決定的になにかが変わるであろうことをおぼろげながら示しつつも、物語は3人の平凡な毎日を描き続けます。

なぜ僕がこのように不穏な気配を感じながら、しかし同時に多幸感を全身にたっぷり浴びて映画の世界に浸れたのか。それはカメラの捉える景色にあったと思います。この映画では、基本的に会話の話者ではなく、聞き手を映します。発信する側ではなく、受け取る側をフィルムに焼き付けるのです。ですから、クラブやビリヤードの場面のように、3人で意味もなく笑い合って楽しさを共有する幸せなシチュエーションであったとしても、会話の中に生じるささいなズレや、場の空気に対する違和感みたいなものが、受け手側のリアクションによって自然と浮き彫りになっているのです。たとえば佐知子と静雄が仲良さげに会話しているときの「僕」の表情。表面上は笑顔を取り繕っているけど、本心では嫉妬や疑いの気持ちを抱えていることが透けて見えます。また、たとえば、カラオケで熱唱する佐知子を見つめる静雄のまなざし。明らかに、親友の恋人に対する恋心と、それを隠そうとする抵抗の気持ちと、彼女と交わることはできないという諦めが混じっています。これは佐知子を映しても、ふたりを同じフレームに映しても、きっと切り取ることはできません。佐知子をいとおしそうに眺める静雄を辛抱強くまなざすことによって初めて成り立つ演出です。徹底して話者を阻害し、受け手の側を映し続けるこのスタイルこそ、3人の浮遊した人間関係の不安定さとその先にある「夏の終わり」を観客に刻み込む重要な要素になっているのではないでしょうか。

僕はこの映画をひとことで表すとしたら「徹夜して飲んで店を出たときに感じる夜明け前の空のよどんだ生暖かさ」なのだと思っています。もうとっくに1日は終わっている。これから次の日が始まろうとしていて、がらんどうの街並みに鳥の鳴き声が響き、朝の準備のあわただしい熱を帯びはじめている。しかし、まだどこかに昨日の名残が漂っている。このうつろな空気の中をさまよう感覚。それが「きみの鳥はうたえる」なのではないでしょうか。つまり、3人の楽しい毎日がずっと続くはずないなんてことは、いい加減それなりの年齢なので分かっている。それでも、この余韻に浸っていたい。そういう感覚です。そして、「僕」が取り返しのつかない段階になってはじめて佐知子に後悔を交えながら本当の気持ちを吐露したように、もう、日が昇り始めたら太陽の動きを止めることはできないのです。問答無用で次の日が始まってしまう。そういうまどろみと焦りをごちゃまぜにしたのが「きみの鳥はうたえる」なのではないかと思います。