映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「斬、」感想:タイトルの読点に込められた意味とは

こんにちは。じゅぺです。

今回は「斬、」について書きます。

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池松壮亮を見る

僕はこの作品を渋谷のラブホ街のど真ん中にあるユーロスペースという映画館で見たのですが、なんとそこで池松壮亮塚本晋也監督を目の前で見てしまったんですよ!この映画館はビルの3階にあって、僕の乗るエレベーターの扉が開いた瞬間、目と鼻の先に二人が立っていたのです。実は僕がチケットを買った前の回でたまたま二人が上映後に登壇するイベントをやっていたんですね。一瞬時が止まりました。べつに言葉とかを交わしたわけではありませんが、一目見ただけでも興奮しますね。ホンモノはスクリーンで見るより小顔でした…!

 

こちら側とあちら側

映画の話をしましょう。「斬、」はひとりの浪人が人間を斬る怪物になるまでを描く時代劇です。本作には3人の剣士が登場します。一流の剣さばきの技術を持ちながら人を斬った経験がなく、むしろ対話による外交的解決手段を好む杢之進と、能力は彼に劣るものの本物の侍になろうとする農家の息子・市助、そして杢之進と互角かそれ以上の実力があり、残酷な人殺しも厭わない浪人・澤村です。池松壮亮の青っぽい、俗な表現を使えば「厨二病」感あふれる雰囲気が、ピュアで汚れを知らない杢之進のキャラにピッタリですし、逆に訥々と喋りながらエグいことを言う澤村の胡散臭さを、塚本晋也は見事に表現しています。杢之進自身は澤村に反発心を抱いていますが、もしかしたら二人は似た者同士なのではないかと思わせる、この微妙な距離感にしびれます。「こちら側」と「あちら側」は意外に近くて、境界線もあいまいなものなのですね。超えるか/こえないかは本作の重要なテーマになっています。 

 

二つのメタファー

杢之進のキャラクターを理解する上で重要になってくるのが、二つのメタファーです。まずひとつが、二回に登場する自慰の場面。杢之進は市助の姉・ゆうと互いに親密な関係にあるのですが、かといって一線を変えようとはしません。しかし、彼はひとりでこっそり自慰をするんですね。一回目はほとんど唐突に挟み込まれるので、おや?と思う程度にとどまりました。重要なのは二回目です。市助やゆうを助けられない自らの無力さを自覚し、失意に沈む中で再び彼は自慰に励みます。ここで自慰は刀で人を斬れない杢之進の葛藤を表しているのだとわかります。そのまんまです。彼は戦でも女性に対しても実戦で刀を引けないのです。胸の奥にしまい込んだ鬱屈とした感情やリビドーを解放し、自らを慰める用途にしか刀を使えないのです。杢之進は、去勢とまではいかなくとも、本能を剥き出しにできない「非力」な存在としてここに立ち現れます。

もう一つの重要なメタファーは、木を登るてんとう虫です。序盤、澤村のつぶやいた言葉がヒントになっています。てんとう虫は端っこにたどり着くまで木を登り続ける習性があります。途中で妥協して飛び立つことはありません。空へ羽ばたくには、絶対に木のてっぺんまでたどり着かないといけないのです。これって杢之進の行く末を暗示しているのではないでしょうか。杢之進は病床に伏していたせいで諍いを止められず、市助を失い、敵を斬る勇気がなかったためにゆうがレイプされてしまう事態まで招いてしまいました。最終的に澤村との一騎打ちで、このままでは自分が死ぬと確信して初めて人を斬ることができました。極限まで追い詰められ、心のいちばん奥にしまい込んでいた獣としての本能を強引に引きずり出されるまで、杢之進はまっとうな「人間」であろうとしていました。でも、それも一度てっぺんにたどり着いてしまえば、取り戻せない過去のものとなってしまうのです。この映画は最初から最後まで「杢之進は人を斬れるのか?」に迫った作品だと言えるでしょう。単なるチャンバラではなく、死の現実と向き合わざるを得なかった男の悲劇なのです。

 

タイトルの「、」の意味

タイトルが「斬」ではなく「斬、」なのもきになるところです。きっと杢之進が人斬りになったのは「終わり」ではなく、ゆうの悲痛な絶叫と共に幕を閉じるこの映画の後にこそ本当の「始まり」があるということなのではないでしょうか。よくよく考えれば、地獄のような話だと思いませんか。池松壮亮塚本晋也監督を目撃したことのインパクトが強くて、映画本編の記憶が若干薄れてしまったことは否めませんが、とってもいい映画でした。しかし、本人を間近に見た後にスクリーンで彼の自慰シーンを見るというのも、なかなか気まずいですね笑