「サマーフィルムにのって」感想
サマーフィルムにのって、観た。すばらしい!伊藤万理華がスクリーンを縦横無尽に駆けまわる。観客が彼女の存在を知り、好きになる。それだけで映画としての役割を九割果たしていると言っていい。不機嫌そうに背中丸めて歩いてたハダシが、全身のエネルギーを爆発させて躍動するラストに心奪われた。
ジョン・ヒューズ映画の常連で、「ブレックファスト・クラブ」の優等生役で名を馳せたモリー・リングウォルドのように、その膨れっ面と不満そうな目つきで、彼女の目にこの世界がどう写っているか、ありありと伝わってしまう。そして、腹の底に渦巻く花鈴への羨望とルサンチマン。
時代劇オタクの青春、たのしい仲間との部活動、未来人との交流を描くSF、映画づくりの映画…などなど、あらゆるところにフックが仕掛けられている分、受け手によって「これは違う!」となってしまう落とし穴も多い。それでは、欲張り気味なこの映画の中心は何なのだろうか。
やはりそれはハダシ=伊藤万理華の存在感なのだと思う。けっして現実にはいない、あまりにもデフォルメ化されたキャラクター(栃木の田舎で名画座に入り浸る時代劇オタク!)なのに、もしかしたらこの世界のどこかで出会えるかもしれないと期待させてくれる、絶妙な親しみやすさ。あまりに力強い!
「ハダシ組」の仲間たちがとても濃ゆくてステキなのに、物語が進む中で後景化していくのはすこし残念だったけど、最後まで観れば、それは必然だったと気付くことができる。ラストのあの一秒のためにすべてが用意されていると言っても過言ではない。物語の行く末は「未来の観客」に委ねられている。
「ハダシ組」の撮影風景を描くワンカット風のシークエンス、あるいは「ハダシ組」と「花鈴組」が同じ部室で編集作業に勤しむ様のダイジェスト。そして、「リンダリンダリンダ」の屋上での打ち上げを思わせる体育館でのおしゃべり。どのシーンも人物が「その瞬間」を生きていて、すばらしい。
だからそのあとの天文部の部室のシーンは、ただ物語の展開上必要とされる説明に終始していて、とても残念だった。SF的要素を魅力的に押し出してくれなかったのは、個人的にはわりと大きな不満である。しかし、賛否の分かれるラストの展開については、俺は大いに賛成している。とても気に入った。
あくまで監督としてレンズのその先にいる人に接してきたハダシが、ついに一歩踏み出し、フレームの中に侵入する。監督の目線で達観するのではなく、また、自分を支えてくれた「好き」に寄り掛かるでもなく、希望にあふれた主人公として、舞台の真ん中に立つ。ハダシ/ハダシ監督が、勝負に挑む。
わたしがわたしの物語の主人公になる。「セッション」のアンドリューとフレッチャー先生を思い出してみよう。もはや観客を置いてけぼりにして、劇場中のスポットライトを独占する。ふたりだけの空間で世界を作ってしまう。あそこまで狂っていないにせよ、ハダシの躍動はまさしく「青春」の結晶だった。