映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「雨月物語」感想:欲望に忠実に生きるということ

こんにちは。じゅぺです。

今回は「雨月物語」について。

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雨月物語」は上田秋成の読本を原案に、欲望に翻弄される人々を描いた溝口健二監督の作品です。溝口作品を見るのははこれが初めてです。

雨月物語」はあらすじだけを追ってみると「まんが日本昔ばなし」のようで、良くも悪くも教訓じみたお話です。元ネタが江戸時代の読本なので当たり前と会えば当たり前ですが。根底に流れているのは、やはり膨らみ続ける人間の欲望に対する戒めや、身の丈にあった生活を維持し続けることの難しさと幸せなど、江戸時代当時の市民感情に寄り添った内容になっていると思います。しかし、溝口監督によるエッジの効いた演出と、俳優陣のおどろおどろしい芝居により、単なる昔話にとどまらない普遍性を有しているんですね。

雨月物語」では、お金や出世を求める男の夢も、家族と平穏に暮らす女の幸せも、幻のように儚く消えていきます。ただ幸せを願っていただけなのに、源十郎はお金を盗まれ、宮木は強姦され、阿浜は遊女に堕ちる。彼らは「身の丈」を越えようとして不幸な目に遭うのです。そして、かつての慎ましい生活を振り返り、自らの過ちを知ります。民話のような起承転結です。普通の生活に戻っていく源十郎たちの姿に、手が届く範囲で平和に過ごす日々がいかに尊いことか、思い知らされます。

このような話は、なかなか現代には作りにくい内容なのではないかと思います。だって、自由競争を前提とした資本主義社会は、世界が常に右肩上がりに成長していくことをすべての前提としているからです。あしたは今日より必ず豊かになるし、「なりたい自分」になるためにたくさんのお金と時間をかけなければなりません。すなわち、現状維持は「負け」です。この社会はみんな欲望をむき出しにして争わないと成立しないのです。身分が固定されていた農耕社会では現状維持でも帰る場所があったけど、21世紀では走り続けないと先がないんですよね。「見失っていた自分を取り戻す」お話としてはもちろん普遍的なのですが、作品の前提として、このような対比ができるのは面白いと思いました(ちなみに詰めきれませんでしたが、「雨月物語」は戦乱の世を背景としているので、そこに現代の競争社会を当てはめて考えてみるのも面白いかもしれません)。

あと、忘れてはならないのが、溝口による演出ですね。死後の世界のような川の流れや若狭の屋敷、独特の美しさを放つ映像と緊張感のある音楽がすばらしいです。細かくカットを切らず、長回しをいくつも繋ぐことによって、会話の間の生々しい鮮度が保たれています。奇怪な現象に巻き込まれていく不気味さや寒々しさがフィルムに焼きついているのです。屋敷のくだりは本当に呪われそうなぐらい怖かったです。久々に映画を見ていて鳥肌が立ちました。

溝口健二監督は「西鶴一代女」もDVDを買ってあるので、いずれ見なくてはと思っています。見たい映画が溜まっていくなあ…。

「ゾディアック」感想:凶悪事件に対する一途な片思い

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ゾディアック」について。

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「ゾディアック」は実際の未解決事件を題材にしたサスペンスです。監督はデヴィッド・フィンチャー。「ソーシャル・ネットワーク」は僕のオールタイムベストの一本です。独特の青く冷たい映像の質感と、ヒリヒリと肌に染みるような緊張感をつくるのが大変上手い監督です。「セブン」や「ゴーン・ガール」などグロテスクな人間の本性を暴くスリラーももちろんですし、「ハウス・オブ・カード」のような政治劇でもその手腕は存分に発揮されていました。

「ゾディアック」では、猟奇的な犯行を繰り返す連続殺人犯を追う3人の男の人間模様が描かれます。ひょんなことから事件の調査にのめり込むことになる挿絵作家のグレイスミス、ひとりで真相の間近にまで迫った刑事のデイヴィッド、そして貪欲にスクープを追い求める敏腕記者のエイヴリー。それぞれが事件に対する想いを抱えながら、犯人逮捕に向けて執着していく姿に、僕は少し恐ろしさを覚えました。特に家族も顧みず真相解明に燃え、やがては仕事すら辞めてしまったグレイスミスの情熱はどこかアンバランスで狂気すら感じます。どんどん深みにハマっていき、やがて抜け出せなくなっていく。自分の人生を全うに過ごそうとする意思すら捨ててしまう。真犯人を探すことが生活の中心になり、一つひとつ証拠を積み重ねて仮説を立てる刺激に感覚が麻痺しているのです。そこにはもはや事件に対する「愛」すら感じます。偏愛であり、一途な片思いです。中毒といってもいいかもしれません。ゾディアックを追いかけることが、ある種彼の存在証明にすらなっているように感じました。

このお話の主題は犯人探しではなく、あくまで人間ドラマなのですが、パズルのピースを組み合わせるように進んでいく推理パートも面白かったです。時間の長さも感じさせないテンポ感とスリルで楽しい内容になっています。主演の3人もアイアンマンにハルク、そしてスパイダーマン最新作のヴィラン・ミステリオとMCU俳優陣がそろっています。2時間30分以上あり、なかなかの長丁場なのですが、見る価値はありました。おすすめです。

「溺れるナイフ」感想:むき出しの自我の衝突

こんにちは。じゅぺです。

今回は「溺れるナイフ」について。

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溺れるナイフ」は、ジョージ朝倉による同名少女漫画を、小松菜奈菅田将暉のダブル主演で実写化した作品です。監督は山戸結希。正直菅田将暉はあまり好きではない(ガチャガチャしていて騒がしい)のですが、小松菜奈目当てで見ました。結論としては、結構面白かったです。

溺れるナイフ」というタイトルの通り、本作は感情の浮き沈みが激しいコウとそんな彼に依存する夏芽を通して、剥き出しのナイフのようにギラギラと輝きを放ち、触れば血が出る鋭さを見せる青春の衝動を描きます。

正直、主人公の二人には全く好きにはなれないんですよね。コウの自我は肌を裂いて中から溢れ出そうなぐらいパンパンに膨れ上がっていて、そんな彼が堪えきらず夏芽にキツく当たったり、不良の道に進んだりするのも、行動としては分かります。クソ田舎でイキり散らしてるあたりも、夏芽と比較した際のスケールが小さくて可愛らしいし、自分の限界を知ることほど悔しいことはありませんよね(そしてそのことがコウをさらなる破滅衝動へと駆り立てるわけです)。しかし、だからといってコウのことは好きになれないんです。たぶん、菅田将暉嫌いなフィルターがかかっているせいもありますが。なんというか、コウとは距離をとって映画を見たくなるんですよね。

そして夏芽も、おそらくチヤホヤしてくれないことの新鮮さや、ある意味の気楽さ、そして、自分と同じ傷つきやすさをコウに感じ取り、彼に惹かれていきます。おそらくこれまでの反動や反発が、彼女を暴走へ駆り立てているのでしょう。どうしてこんなしょうもない男と…って思うと、夏芽のことも好きになれませんが。

ところで、夏芽にとってコウと一緒になることは、いまこの瞬間の幸せにはなるかもしれないけれど、自分の夢を貫こうと思ったら、いつか足かせになってしまうんですよね。おそらくコウも夏芽もそのことは心のどこかで常に引っかかっていて、深く愛し合おうとしても、完全には入り込めないんだと思います。自分の幸せと相手の幸せが相反するものであることを知っているがゆえに、二人は自我に振り回され、お互いを傷つけあっていきます。二人の関係に、はじめから幸せな未来はなかったのかもしれません。

しかし、コウも夏芽も、まだ諦めを知らないのです。理屈で考えれば「正解」はすぐに出てくるわけですが、不条理な感情にかき乱され、バカだなあと自覚していながらもズブズブと沼にはまっていく。僕がコウと夏芽を好きになれないのも、おそらくこういうところです。前しか見えていない二人が幼くて、青臭くて、なんだか鼻をつまみたくなってしまうんですよ。ただ、それは青春映画としてはこの上なく素晴らしいことなのではないかと思います。コウや夏芽に、くだらないことで落ち込んだり、将来どういう大人になるんだろうと考えていたかつての自分(あまり今も変わっていませんが)を重ね、記憶の嫌な部分にぐりぐりとタバコでも押し付けられているような気分になるからです。つまり、青春の痛々しさをものすごくリアルに抉り出していて、否が応でも自分とコウや夏芽を重ねてしまうんですね。こういう捉え方は個人的な経験や価値観に左右されてしまうので、あまり一般化できるものとは思えませんが、僕はこの点で非常にすばらしい映画だと思いました。良作です。

「レゴ・ムービー2」感想:父との和解の「その後」

こんにちは。じゅぺです。

今回は「レゴ・ムービー2」の感想です。

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「レゴ・ムービー2」は人気玩具レゴ・ブロックを題材にした傑作アニメ「レゴ・ムービー」の続編です。前作に引き続きフィル・ロードクリストファー・ミラーのコンビが製作と脚本を担当、監督はシュレック フォーエバー」のマイク・ミッチェルが務めました。

 

秩序と自由、お父さんと息子

「レゴ・ムービー」はオモチャを題材にしたファミリー向けの映画ながらも、その高密度な脚本と卓越した映像演出で批評的にも大きな成功を収めました。「レゴ・ムービー」では、平凡な主人公エメットが「マスタービルダー」たちの力を借りながら、世界をスパボン(=ボンド)で接着することで「秩序」をもたらそうとするお仕事大王に立ち向かう姿が描かれました。

さらに終盤以降、この物語そのものが、エメット少年の空想の世界であったことが明かされます。お仕事大王の正体は「完璧なコレクション」を目指し、子どもが遊べないようにすべてのブロックを接着しようとするお父さんであり、息子のエメットはその暴挙を阻止しようと、想像力/創造力で立ち向かっていたんですね。つまり物語は多層構造になっていて、秩序 vs 自由、マニュアル通りのレゴ vs アイデアで組み立てるレゴ、父 vs 息子といった様々なレイヤーが折り重なってダイナミックな全体像を作り出しているのです。

しかし、この映画はどちらかを否定するようなことはせず、どちらも肯定します。示されるゴールは両者の「和解」です。マニュアルがなければそもそも新たなアイデアは生まれない、秩序やルールがあって初めて「逸脱」が認識されるのであり、自由の本質は制約への反抗にあるのだということ。これはまさしく「レゴ」というオモチャの楽しみ方の根幹にある哲学です。武道の「守破離」に近いものがあるかもしれません。親子の関係修復、抑圧の危機にある世界の救済、そして「レゴ」の楽しさを、同じ構造に落とし込んで語ってしまうクレバーさに、僕は大きな衝撃を受けました。「レゴ・ムービー」は間違いなくオールタイムベストの一本です。

 

父との和解の「その後」

前作で父と和解したエメットが次に向き合うのは妹です。父が子どもたちにレゴ部屋を解放した結果、エメットの世界はデュプロ星人=妹による侵略を受けることになります。「すべては最高」だったはずの世界は、絶望的な混沌へと飲み込まれていくのです。もうすでに多層構造のネタは周知のものですから、第2作ではさらにツイストを効かせた展開が待っています。よりエメットの自我に深く切り込んだ内容になっているのです。

「セカンド・パート」の中盤以降に描かれるのは、妹の介入によってただ無邪気に遊んでいるだけではいられなくなった=世界を救うヒーローではいられなくなったエメットの混乱、怒りや不満です。彼は「兄」として現実に向かい合わなければなりません。わがままな「子ども」の殻を壊さなければならないという、外からの圧力に戸惑うことになるわけです。この葛藤は、レゴの世界では想いを寄せるワイルドガールの失望となって現れています。大人になること、兄らしくあること、そして「男」として一人前になること。さまざまな不安にかき乱されながら、エメットは「ワイルド」になろうとし、やがて世界を破滅に導いてしまいます。

そして、エメットは自らの過ちに気づくのです。彼は心地よい世界が壊されていく焦りから、本当の自分を見失ってしまっていたんですね。これは現実パートともリンクしていて、レゴをめぐり争う兄と妹の和解の物語がオーバーラップしていくことになります。自分だけがハッピーで心地よく居られる「すべては最高」な世界なんて現実に存在しません。それがたとえ少年の脳内で組み上げられた妄想の空間であってもです。「すべては最高じゃない。だけど、最高に近づけることはできる」ことに気づいて初めて、世界はよりベターな方向に進んでいくのです。それって、昨今の混乱を固める世界情勢、ポストトゥルースのトランプ時代へのカウンターにもなっています。本当の自分を見失わず、みんなにとってのベストは何なのかを常に探し続けることこそが「すべては最高」への第一歩なのです。

 

全体を通して

「レゴ」という語り口と「型にハマった大人と自由な子ども」の対立というテーマがカッチリ噛み合う気持ち良さが前作にはありましたが、セカンドパートではメタ目線をより生かした物語になっていました。おかげでレゴを組み立てる気持ちよさや、ならではの独創性はちょっと薄めに、より抽象的な話になっている印象です。

小ネタは前回以上にディープで細かく、子どもにわからせる気ないでしょって笑いもちらほらありました笑 ただ、映像面の話をすると、前半は1作目と変わりし映えしなくて少し辛いです。「レゴならでは」の驚きや柔軟さには欠けています。重層的な脚本のクレバーさは相変わらずですが、クリエイティビティあふれるアクションの喜びが足りない分、大人が考えた頭でっかち感が強調されてしまっていると思いました。

最後になりますが、エンドクレジットは傑作でした。良くも悪くも気合い入りすぎです笑 こういうお遊びをオシャレに見せてしまうのが憎いですよねえ。フィル・ロードクリストファー・ミラーの偉大さを改めて実感しました。

「ブロードウェイ・メロディー」感想:MGMミュージカル草創期の作品

こんにちは。じゅぺです。

今回は第2回アカデミー作品賞受賞作品「ブロードウェイ・メロディー」のレビューです。

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「ブロードウェイ・メロディー」は、レビューのスターを目指すマホーニー姉妹の物語です。

正直、この作品の価値は歴史的な意義が大きいと思います。MGMが全編トーキーの本格ミュージカル映画に挑んだ記念碑的な作品であり、その後のミュージカル映画の土台になっています。この頃はまだブロードウェイのスターたちも映画界には進出しておらず、ダンスのクオリティもショーの見せ方も平凡です。お世辞にも技術が高いとは言えません。第二回アカデミー賞作品賞受賞というとすごい映画のように聞こえますが、正直、ガッカリな出来ではあります。

しかし、そうであるがゆえに、その後のハイクオリティなMGMミュージカルと比較すると、興味深い部分もあります。たとえば、場面の切り替えごとに黒い背景に白字の字幕が入る編集にはサイレント映画の面影を感じます。まだ字幕を使わずにシチュエーションが変化していることを表現する技術が確立していなかったんですね。また、定点的なカメラワークも8年後の「踊らん哉」の機関室のシーンのような軽やかなカメラの動きと比べるとモッサリしていますが、このあいだのテクニックの発展を考えると面白いですよね。

ガッカリな出来とはいいましたが、ひとつとても好きなシーンがありました。上手くいかない人生に悲観し泣きながら化粧を直す姉の場面です。鏡台の前の女性って色っぽいと思います。「夏の遊び」を想起しました。夢を追いかける踊り子たちの、一つひとつのステージにかける想いの強さやプレッシャーが伝わってきて、とてもいいシーンです。一つでもこうやって好きなシーンに出会えたのであれば、その映画を見る価値はあったのかなって、思いますね。

「ULTRAMAN」感想:ウルトラマンネクサスの思い出

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ULTRAMAN」について。

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ULTRAMAN」は2004年当時円谷が企画していた連動プロジェクトの第1弾として公開された劇場版作品です。「ウルトラマン」第1話の舞台を現代に置き換えて再解釈した内容になっています。この後に放送されたテレビシリーズ「ウルトラマンネクサス」と世界観を共有しており、最終回で両作が合流します。「ULTRAMAN 2」の製作も予定されていたそうですが、「ULTRAMAN」の興行成績不振や「ウルトラマンネクサス」の打ち切りにより、企画自体が消えてしまいました。

僕も「ウルトラマンネクサス」はリアルタイムで見ていました。低予算でなかなか怪獣も登場せず、ヒーローものとしては面白みに欠けるところがあったのですが、同じウルトラマンで変身する人が交代したり(そもそも主人公は変身できない)、主人公の恋人が死んで悪者に変身するトラウマ展開があったりと、新しいウルトラマンを作ろうという気概にあふれた作品で、当時子どもの僕もテレビにかじりついて見ていました。

なにより打ち切り決定(正確には放送クール短縮)後、予定されていた「ULTRAMAN」との合流を展開に入れるために、間のエピソードを端折った結果、ものすごくテンポが良くなって、めちゃくちゃ面白くなったんですよね。これまでノロノロ進んでいた分、駆け足になるぐらいがちょうどよかったのです。おかげで「ULTRAMAN」と合流する最終回もとても面白かったですし。怪我の功名といいますか、副作用ですよね。

僕も「ウルトラマンネクサス」にはハマっていたのですが、肝心の「ULTRAMAN」は当時チェックできていませんでした。15年越しにやっとこの作品を見ることができたというわけです。しかし、良くも悪くもシリーズの作風に沿った内容で「シン・ゴジラ」的な仮想SFを期待すると食い足りないなあという印象でした。自衛隊の協力による実機を使用した戦闘機描写は豪華でしたし、10メートル級サイズの戦闘など生命体っぽさを追求した特撮は見たことがない手触りの映像になっていて、非常に面白かったんですけどね。親子愛や夫婦愛がメインになっているところなんて、「平成ゴジラシリーズ」の薄っぺらいところをそのままなぞっている気がします。万人に受ける作品を目指すと、そうなってしまうのでしょうか。危機に立ち向かうお父さんと息子の和解なんて手垢のついたテーマなので、少しひねりが欲しいところです。

好意的に解釈すれば、あくまでこのお話は真木の父としての成長の物語です。すごく個人的なスケールで進むので、登場人物は必要最低限になっていると言えるでしょう。しかし、せっかくウルトラマンをリアル志向で解釈するなら、違う話にもできたはずだと思います。もっと重厚感のあるドラマが見たかったですね。未知の巨大生物が街に登場したことへの市民や政府の動揺は、もっとじっくり描いてもよかったと思います。

しかし、ウルトラマンとしてはやはり異質です。この後「ウルトラセブンX」という大人向けSF風の企画もありましたが、やっぱりコケました。なかなかウルトラマンとシリアス路線は噛み合わせが悪いのかもしれませんね。

「アリス・イン・ワンダーランド」感想:ミア・ワシコウスカに注目

こんにには。じゅぺです。

今回は「アリス・イン・ワンダーランド」の感想を書きます。流し見だったので、ちょっぴり中身は薄めです。

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アリス・イン・ワンダーランド」は「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」をベースにしたアリスの冒険ファンタジーです。僕はてっきり「不思議の国のアリス」の実写化だと思っていたので、冒頭からアリスの父親が死んだことになっていてびっくりしました。あくまで小説をベースにした後日談なオリジナルストーリーになっているようです。

不思議の国のアリス」の面白さは、その不思議な世界観もさることながら、遊び心あふれる言葉あそびにあります。「アリス・イン・ワンダーランド」は、どちらかというとアクションファンタジーの毛色が強いですね。最終的にはジャバウォッキーとの戦いになります。原作のとんちの効いた可笑しさを期待していたので、大味のハリウッド大作になってしまったのは少し残念でした。

見どころはアリス役のミア・ワシコウスカ。凜とした顔だちと白く光る肌がとても美しい。熱に浮かされた時に見る夢のように奇妙な世界でも、はっきり存在感を放っていました。ジョニー・デップヘレナ・ボナム・カーターアン・ハサウェイなど豪華スター俳優陣に囲まれても、まったく埋没していません。これ以降、それほど出演作がないのが残念です。

新たな船出を決心するラストは、清々しくてとても好きですね。ひとりの少女が父の死というトラウマを乗り越え、人生の旅に出る。「不思議の国のアリス」としては気に入らない点もありますが、非常に爽やかな映画でした。