映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「バンブルビー」感想:スピルバーグ正統進化系

こんにちは。じゅぺです。

今回は「トランス・フォーマー」シリーズ最新作「バンブルビー」の感想です!

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バンブルビー」は父の死を受け止めきれない少女チャーリーと記憶を失ったバンブルビーが寂しさを埋め合う中で「本当の自分」と出会うまでを描きます。「トランス・フォーマー」シリーズだと1作目に近いテイストで、原点回帰と言える内容になっています。2作目以降はマイケル・ベイらしい豪快な爆破の楽しめるアクション大作って感じですけど、「バンブルビー」は監督が交代し、青春の甘酸っぱさとか挫折感をストーリーの中に織り交ぜた、より人間ドラマにフォーカスした異色な作品になっています。

 

マジメな「トランス・フォーマー」

別にこれまでが不真面目だったとは言いませんけど、「トランス・フォーマー」って途中から開き直って、はっきりと中国市場を意識した「景気の良さ」で勝負していたところがあると思います。たくさんロボットを出して、破壊して、ストーリーのいたるところに爆破シーンを散りばめ、それを一本の映画にまとめて世に送り出す。一般的な観客の情報処理能力などおよそ無視した過密な画面設計と緩急のないアクションの連続は、やがて飽きられ、「トランス・フォーマー」はただ冗長でメリハリのないアクションの代名詞として認識されるようにすらなりました。そして「最後の騎士王」の大失敗を受け、メインのシリーズは実質的な終わりを迎えました。しかし、前から開発が進んでいた「バンブルビー」の企画は生き残り、このたび公開に至ったわけです。

そんな「バンブルビー」は、これまでとはひと味違った作風になっています。より少女とバンブルビーの心の交流に焦点を絞り、ふたりの成長をじっくり描くジュブナイルの香りが強いのです。宇宙からやってきた戦闘ロボットの設定は、この物語を彩るフレーバーです。あくまで青春映画としての土台をしっかり固めた上で、アクションを描いているわけです。僕はこのアプローチ、とてもいいと思いました。ぜひとも他のスピンオフ作品でも「トランス・フォーマー」を材料に自由に料理してほしいところです。

 

スピルバーグ正統進化系

この映画をひと言でまとめると「見やすい」です。1から10まで素直に使っていて、ひねくれたところがあまりない。たとえば、アクションシーン。武術ののように投げ技を繰り出し、ゴリゴリと体を絡ませて戦う殺陣は新鮮です。登場するロボットも少ないので、情報量の多さに窒息してしまうこともありません。一方で走り回る人間のうしろでロボットたちが肉弾戦を展開するシリーズおなじみの長回しも登場し、ならではの巨大感などオタク的なツボも押してくれます。また、父の愛車やガラクタのラジオ、チャーリーのVHSなど、アイテムも(ちょっと滑らかすぎるぐらいに)鮮やかに伏線として回収されており、脚本の完成度もわりと高いと思います。

なにより、全体的な雰囲気が「スピルバーグ」っぽいんですよね。チャーリーとバンブルビーが喪失を乗り越えて成長していく姿はなんとも頼もしく、「E.T.」を連想させます。また、最近よく引用される「ブレックファスト・クラブ」など80年代カルチャーを露骨なまでに散りばめ、とても爽やかで明るい空気感を演出しています。チャーリーが父を失い、家族とも上手くいってないという設定はなかなか重たいのですが、あんまり湿っぽくなりすぎないのは、このスピルバーグイズムがポジティブに働いてるからではないかと思います。

あとこの映画、「意地悪な人」が出てこないんですよね。はっきりと悪役として出てくるのはロボット二人だけで、チャーリーたちに立ちはだかる軍人や博士、両親などの大人たちにもはっきりと目的や考えがあるし、根っこから悪い人間ではないので、嫌いにはなれませんでした。ここらへんも昔の、特に80年代〜90年代ぐらいの明るく楽しいハリウッド映画の残り香を感じます。

 

全体的に、あまりスケールも膨らみすぎず、ちょうどいい箱庭感でお話が展開するので気張らず楽しめました。女優ヘイリー・スタインフェルドの可能性も感じましたし、期待以上に面白かったです。次のスピンオフにも希望が持てますね。

「切腹」感想:「武士道」の欺瞞を暴く

こんにちは。じゅぺです。

今回は小林正樹監督の時代劇「切腹」の感想です。

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切腹」は、幕府による支配で「武士道」が失われた世を描いています。シンプルなタイトルの通り、物語は戦国時代の武士たちが大事にしていた切腹をめぐる騒動を中心に展開します。

「武士道」というと、僕はポジティブな文脈で聞くことが多いと思います。礼儀を重んじ、修行を通じて技と心を磨き、常に「武士」であろうとする。そんな生き様は日本の美徳である言う人もいますが、本作はそんな「武士道」を徹底して批判的に描いています。たしかに見た目は美しいかもしれない。けど、本当にその通り純粋に「武士道」を貫いて生きている人なんて、本当にいたのでしょうか。「武士道」を称揚する侍たちも、所詮は幕府という強大な権力機関で働く官僚でしかなく、建前を並べ立てて満足する生き物なのです。そこに私たち現代人が求める「日本人の美徳の原点」などなく、血生臭い争いが繰り広げられていたと。非常に皮肉っぽい話になっているんですね。

そのことをまざまざと見せつけられるのが、求女の切腹の場面です。彼は妻と娘の薬代を手に入れるため、井伊藩の屋敷の前で切腹を願い出て、あわよくばお金を無心しようとする、貧乏浪人なのでした。しかし、井伊藩は、もしお金がもらえると噂が広まると面倒だということで、本当に切腹を命じてしまうんですよね。

しかも、切腹のさせ方が非常にサディスティックで残酷でした。刀を質に入れ、竹光しか持っていなかった求女に、竹光のままで切腹をするように命じるのです。しかも「武士道」に反するということで、しっかり腹を裂ききるまで介錯はしないというのです。思わず、こっちまで脂汗を流してしまいました。

たしかに、覚悟を決めて腹を切る求女の姿は潔く美しく見えました。しかし、お金がなければその精神も報われない。本当に元も子もない話です。この話のどこに「武士道」があるというのでしょう。

この腐った侍の世界に一人抗うのが、求女の義理の父である半四郎です。自らのプライドと生活を守るために都合よく「武士道」を振り回す連中が大半の中、最後まで武士の魂を守り抜く半四郎がカッコいい。しかし、彼もまた最後は井伊藩の力に屈し、散り去っていきます。そして、求女の死も、半四郎の反抗も、中間管理職の嘘によって隠蔽されます。結局、鈍くて強欲な人間ほど生き残るのです。建前だけは立派な権力に殺されていく貧乏侍たちが哀れでした。

映像面でもみどころがあります。シンメトリーで奥行きの深い構図、極限の精神状態を切り取るクローズアップ、舞台的な照明など、アーティスティックで引き込まれました。

国際的な評価が高いのも納得です。侍たちの卑怯な仕打ちと権力の腐敗は、残念ながらいまの政治を見ても変わらないなあと思います。非常に満足のいく作品でした。

「オーバーフェンス」感想:フェンスの先に見える景色

こんにちは。じゅぺです。

今回は山下敦弘監督の作品「オーバーフェンス」について。

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「オーバーフェンス」は、函館の街で職業訓練校に通う白岩の再起を描くヒューマンドラマです。「そこのみにて光り輝く」や「きみの鳥はうたえる」の佐藤泰志による小説が原作になっています。舞台もおなじみの函館。あっという間に過ぎ去っていしまう北海道のひと夏の情景が、作品に切ない彩りを与えていて、とても味わい深いです。

正直、そのほかの山下敦弘監督の作品に比べると、味気なく感じました。良くも悪くも「無難」で、深く響くところがなかったんですよね。でも、彼の作品に通底している「生きづらさ」と折り合いをつける苦しさ、そして、どんな困難があっても人生は続くのだという現実の見せ方は、とても好みでした。

主人公の白岩は、家庭を顧みずに仕事に打ち込んだ結果、妻とすれ違ってしまい、結果的には結婚生活だけでなく自分の人生も破滅させてしまった男です。キャバクラ勤務の聡は、エキセントリックで精神も不安定。突然白岩の言葉に怒り出してしまったり、急に機嫌が悪くなって家に帰ってしまったりするのです。また、白岩の通う職業訓練校にいる妻子持ちの原は元ヤクザですし、大学を中退した森は新たな環境に馴染めず、教室の端で暗い顔をしています。みんなお世辞にも順調な人生を歩んでいるとは言えません。

でも、人生を立て直そうとがんばっています。過去に辛いことがあっても、文句も言わず、言い訳もせず、必死に生きているのです。そして、ふとした瞬間に知ったそんな他人の痛みやトラウマが、意外なところで自分を支えてくれることもあるのだと思います。

印象的な場面がひとつありました。白岩は、飲みの席でムシャクシャした気持ちを若者にぶつけ、「笑っていられるのも今のうちだ。そのうち楽しいことなんて何もなくなる」と叫びます。その次の日の朝、原の家で目を覚ました白岩は、原が元ヤクザであることを背中の刺青で察します。きっと彼なりに苦しいことも、辛いこともたくさんあったのでしょう。それでも、誰にもそのことを打ち明けず、黙々と妻と息子のために、生活を再建しようとしていたんですよね。みんな頑張ってるんだ、人生に悩んだり絶望したりするのは、自分だけじゃないんだ。そう思えるだけで、肩の荷が降りる気がします。

また、本当に地味な描写ですが、勝間田に孫がいるのが地味に嬉しかったです。自分より倍以上の人生を経験してきた人が、たくさん辛い目にあっても、なんとかここまでやってきているというのは、とても勇気がもらえることだと思います。

本作のラスト、白岩のフルスイングと、ボールの行方を見送るみんなの顔が爽やかでした。フェンスの先に見えるのは、いったいどんな景色なのでしょうね。次の山下作品は「天然コケッコー」あたりにしようと思います。

「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」感想:最大のライバルにして唯一の理解者

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」の感想です。

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ふたりの女王 メアリーとエリザベス」は、陰謀に翻弄されたふたりの女王、メアリーとエリザベスの権力闘争を描く歴史映画です。

 

歴史を知らないなりの楽しみ方

僕は日本史は好きなのですが、世界史はあまり詳しくなくて、この頃のイングランドスコットランドの関係もよくわかっていません。でも、この映画はとても親切で、本編が始まる前に背景となる歴史について軽い解説が挿入されるんですよね。海外の歴史モノって、本国では常識扱いの知識をなんの説明もなく出してきたりして話についていけなくなったりするものなので、この事前解説は配給のナイス判断だったと思います。

ただ、知識がないことが時にプラスに働くこともあるんですよね。歴史を知らないので、たとえば戦争映画を見た時に登場人物がどんな結末を迎えるのか、ワクワクしながら話を追いかけることができるわけです。ホントは遠い昔にすでに起こった出来事なので、オチはわかりきっているはずなのですが。本作「ふたりの女王」もよくわからないなりの楽しみ方ができました笑

 

最大のライバルにして唯一の理解者

本作の原題は「Mary Queen of Scots」、日本語に訳せば「メアリー スコットランドの女王」という意味なのですが、日本の配給がつけた「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」の方がわかりやすいし、内容を的確に捉えていたと思います。この映画は、最大のライバルにして唯一の理解者どうしであった、ふたりの女王の対立と決別を描いているからです。寛容と慈悲の心をもち、大胆な政略で王座を守る美しき女王メアリーと、女としての劣等感から心を塞ぎ、冷徹さと理性で統治するエリザベス。ふたりの生き様は対照的ですが、争いを好まず、平和的な解決によって国家と王家に安泰をもたらそうとしていました。しかし、彼女たちは宮中を牛耳ろうとする男たちの陰謀に翻弄されていくのです。メアリーとエリザベス以上に、女王の権力を狙う政治家たちの方がよっぽど欲深く、陰湿で、恐ろしかったです。期せずして同時期の公開になった「女王陛下のお気に入り」も、ひたすら男たちの愚かさ、情けなさを描いていましたが、これもまた男の目線でしか切り取られてこなかった歴史を語り直す試みの一つなのかもしれません。

 

ふたりの「女王」の熱演

シアーシャ・ローナンマーゴット・ロビーといえば、いまの映画界でもっともオスカーに近い若手女優二大巨頭と言えるのではないでしょうか。そんなふたりの「女王」の佇まいは、本当にこんな感じだったんじゃないかと思わせる上品さと迫力にあふれていました。メアリーの朗らかさと芯の強さ、透き通った蒼い目に宿る壮絶な闘志!侮辱されたときの悔しさと怒りに揺れる涙目の力強さには思わず震えました。シアーシャ・ローナンって優しそうな顔をしてるけど、ダメなものはダメって言い返せる強さみたいなものを持っている気がします、というか、そういう役がハマると思うのです。馬に乗って軍隊を率いる姿もカッコよかったし、スコットランドなまりはキュートでした。グッとくる女王です。

一方、エリザベスは傷だらけで弱々しさが目立ちます。天然痘によるあばたで醜い顔になった彼女の悲壮さたるや…。影で妊婦のお腹を作る姿は痛々しく、胸が締め付けられました。こちらもマーゴット・ロビーがその美貌を封印して、「女王」としてのあり方に悩み苦しみ続けるさまを、抑制の効いた演技で表現していました。この人も結構なカメレオン女優だと思います。役によって全然印象ちがいますね。「スーサイド・スクワッド」のハーレー・クインと同じ人なんて信じられませんよ。

 

ふたりの望んだ平和

血なまぐさい中世イギリスの生々しい姿が描かれている本作ですが、クライマックに夢のように幻想的な(おそらく史実には存在しないであろう)対峙シーンが登場します。女王としての孤独に押し潰されそうになり、平和への願いも先代からの因縁の解決も果たせなかった二人。彼女らの苦しみと「女」であることは切っても切り離せません。そんな陰惨な現実の中で、ほんの一瞬だけ交わる「孤独」の共感が切なく、そして重かったです。もし違う出会い方をしていたら、違う時代に生まれていたら、きっとふたりは素晴らしい友情を結ぶことができたもしれません。しかし、権力を望む者たちによって国家は分断され、流血の事態にまで発展してしまいました。

ブレグジットに揺れるイギリスは、いまも先の見えない暗闇の中で右往左往しています。メアリーの望んだ「平和」はいまも訪れていないどころか、また新たに分断の歴史に突き進もうとしています。女性リーダーのメイ首相は、この国を明るい未来へ導けるのでしょうか。

 

「男はつらいよ 私の寅さん」感想:寅さんのお留守番の巻

こんにちは。じゅぺです。

今回は「男はつらいよ 私の寅さん」について。

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男はつらいよ 私の寅さん」は「男はつらいよ」シリーズ第12作目の作品です。

今回は寅さんがお留守番してさくらたちが旅行する新パターンです。冒頭、さくらはおじさんとおばさんに日頃の感謝を込めて九州旅行をプレゼントするのですが、そろそろ肝心の二人は寅さんが帰ってくる頃じゃないかと不安な気持ちを抱えています。毎度のこと余計なタイミングでやってくるのが寅さん。今回はいつも以上に「来るか/来ないか」がスリリングです。

これは完全に前振りなので、やっぱり一番来てほしくない時にやってきてきます笑 そして、みんなが気を使って遠回しにお留守番になることを伝えようとすると、寅さんはコソコソ隠し事しやがってとブチ切れるのです。本当に厄介ですね。シリーズ最高にムカつきます笑 おそらく彼ならストレートに事実を伝えてもキレるでしょう。基本的相手して欲しいだけなので、構ってスイッチが入るとケンカ別れするまだ収まりがつきません。相変わらず気分屋で自分勝手な寅さんに呆れてしまいますが、さくらたちが泊まる旅館に鬼電しまくるシーンでは爆笑しました。僕が寅さんの親戚だったらノイローゼになってます。でも、そうはならないところがさくらたちの優しさであり、愛の深さです。そして、おそらく寅さんを受け入れられるのは彼女たちしかいないであろうと思ってしまうのが、切ないところです。

今回のマドンナは岸恵子です。画家というよりは美術の先生みたいなオーラでした。「ここに泉あり」でも前橋フィルハーモニーのメンバーの役で出ていましたね。びっくりするぐらい綺麗でした。

ところで、本作はアートに絡めて「生きる歓び」を語る食卓の場面が印象的でした。人によってなにに喜びを感じ、人生の幸せを見出すのかは異なります。タコだったらご飯、寅さんだったら旅行。みんなが口々に自分の楽しみを語るこの場面はある意味「男はつらいよ」の核心を突いているのかもしれません。だって、寅さんと寅さんの惚れた女性は、結局求めているものが違うから、離れ離れになってしまうんですから。でも、みんな少なからず寅さんと同じところがあると思います。どんなお金持ちにだって望んでも手に入らないものはあるのです。「男はつらいよ」を見るたび、僕には寅さんの抱える足りないものへの渇望感が切実に感じられるんですよね。そして見るタイミングやその時の心のコンディションによって響いてくるツボが違うのです。だから何作見ても飽きないのかもしれません。

「キャプテン・マーベル」感想:あきらめずに立ち上がること

こんにちは。じゅぺです。

今回はマーベル・シネマティック・ユニバース最新作「キャプテン・マーベル」の感想です!

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キャプテン・マーベル」はアベンジャーズ誕生前の1995年を舞台に、これまで語られることのなかった「最初の宇宙人襲来」事件と、クリーの戦闘員だったキャロル・ダンヴァースが本当の自分の強さを知り、キャプテン・マーベルとして目覚めるまでを描いています。

 

マーベル・シネマティック・ユニバースミッシングリンク

アベンジャーズ」に代表されるマーベル・シネマティック・ユニバースの壮大な歴史において、1990年代はほとんど語られてこなかった「ミッシングリンク」でした。本シリーズにおいて最初のヒーローはキャプテン・アメリカで、時代は第二次世界大戦の1940年代でした。そのあと1950年代はスピンオフドラマ「エージェント・カーター」、1960年代は「アイアンマン2」過去パート、1970年代〜1980年代は「エージェント・オブ・シールド」や「アントマン」過去パート、2000年代からはご存知のとおり「アイアンマン」からしっかりと描かれています。MCU中のイベントで1990年代で起こったものなんて、ほぼスターク夫妻の暗殺ぐらいしかないわけですね。しかしこの時代はフューリーやコールソンなどシールドのベテランエージェントがまだ若手や中堅だった時代であり、掘ればいろいろ出てきそうな可能性に溢れていました。そして「アベンジャーズ エンド・ゲーム」直前の2019年3月、ついにこの時代の隠されていたベールが明かされるのです。

 

キャロル × フューリーの痛快バディ

ファンの間では「アベンジャーズ/エンドゲーム」前哨戦としての期待値が高かった「キャプテン・マーベル」ですが、ひとりのヒーローの誕生譚としてもクオリティの高い作品になっています。

僕的にツボだったのが、キャロル=キャプテン・マーベルとフューリーのバディの活躍です。気難しいオッサンという現在のイメージからはかけ離れた、気さくで冗談好きなフューリーと、クリー最強戦士の一人として荒々しく物事を解決していくキャロル。軽口叩きながらリズミカルに任務を進めていく様は90年代の映画のノリに近いかもしれません。それこそ「コマンドー」あたりのシュワちゃんに近いです(あれは1985年の作品ですが)。フューリーがそのまんま「あの頃のサミュエル・L・ジャクソン」なのも笑えます。これを違和感なくみれてしまう映像技術にも関心です。1フレームずつ修正したらしいですよ。相当な労力ですよね。

中でもお気に入りのシーンは、ペガサスの秘密基地から脱出するシークエンス。適度に肩の力の抜けたバカバカしさとテンポの良さは、往年のウェルメイドなアクション映画って感じがします。のちに新生シールドの長官になるコールソンも、すでにその正義感の強さとヒーローとしての片鱗を見せていて、ファンの一人としては嬉しいサービスです。本音を言うともっと活躍して欲しかったですけどね。

もうひとつ「エージェント・オブ・シールド」ファンでツボだったのがこの頃のシールドの雰囲気です。今ほどピリピリしてなくて、牧歌的ですらあるというところがなかなか面白い。冷戦が終わって大した任務もなかったんだろうなと思います。クリー/スクラル来襲にあたってあんまり役になっていない気もしますが、これも過渡期ゆえのことなのでしょうか。いろいろ妄想が膨らみます笑

 

あきらめずに立ち上がること

アベンジャーズ/エンドゲーム」の前哨戦として位置づけられる「キャプテン・マーベル」。あえてここで彼女が描かれる理由を考えたとき、キャロル・ダンヴァースの不屈の精神こそサノス逆転のカギなのではないかと気づきました。

キャロル・ダンヴァースは、「女だから」と我慢を強いられてきた悔しさをバネに、そして失われた過去を求めて、なんどでも立ち上がり、遠い空の向こうを目指す、とてもハートが強い人です。彼女がヒーローとして活躍できたのは、けっしてテッセラクトの光を浴びたからでもなければ、ヨン・ロッグの訓練の成果でもありません。あきらめず、試練があるたびに自分の足で立ち上がってきたからなのです。

このヒロイズムって、サノスに完全敗北した現代のアベンジャーズたちに最も必要とされているものなのではないかと思います。全宇宙の生命の半分が消滅した今、サノスの選択にNOを突きつけて「アベンジ」する力を持つのは彼らしかいません。だから彼らはあきらめちゃダメなんです。絶対に自分たちの足で立ち上がり、世界に平和を取り戻さなければなりません。サノスに敗北して抜け殻になってしまったアベンジャーズのメンバーに必要なのは「何度でも立ち上がる」キャロルのヒロイズムであり、彼女の存在なのだと思います。

ところで、ヨン・ロッグが繰り返し言う「感情を抑えろ」は世の女性たちへの抑圧の象徴であり、自分の力を信じて暴れまわるキャロルの姿は、まさしく「女性の解放」の言い換えでもありました。そしてこの「他人から限界を設けられること」と「辛くても踏ん張って自分の力を解放すること」は、女性だけに限らず、すべての人に当てはまる話でもあります。そこがまた単なる「女性ヒーロー」の枠にとどまらない、普遍的なおもしろさに繋がっているのだと思います。

 

キャロルの活躍に期待

それにしても、キャロルのお茶目でスマートなキャラにはベタ惚れでした!そもそもキャロル=ブリー・ラーソンのチャーミングさがこの映画の原動力と言えるでしょう。はじめは闘争心を燃やす戦士といった出で立ちだったけど、敵を知り、本当の自分に近づくうちに、徐々に表情にも柔らかさが出てくるんですよね。クールな時は徹底的にクールに。つねに逆境を笑い飛ばすような精神力の強さも、彼女の魅力です。

正直、こんなにいいキャラクターいるからもっと早く出してくれよ!と言いたくなるぐらい、キャロル/キャプテン・マーベルは最高でした。ただ、ソー以上に戦闘力は強いわりに、アクションはモッサリしていて(未熟なヒーローなので仕方ないかもしれませんが)物足りなかったです。ここらへんは「エンドゲーム」でルッソ兄弟が美味しく料理してくれるんでしょうかね。彼女がアベンジャーズの古参メンバーたちとどんなアンサンブルを見せてくれるのか楽しみで仕方ありません!

「君は月夜に光り輝く」感想:「死」と「青春」の関係について

こんにちは。じゅぺです。

今回は月川翔監督の最新作「君は月夜に光り輝く」です!

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君は月夜に光り輝く」は、不治の病・発光病で「余命ゼロ」のまみずと彼女の死ぬまでにやりたいことを代行する卓也の交流を描く青春映画です。

 

月川翔監督の安定感!

本作の監督は「君の膵臓をたべたい」や「センセイ君主」の月川翔。過去の記事でも月川監督のことについて触れています。

「センセイ君主」感想:作品をつらぬく3つのルール - 映画狂凡人

「響 -HIBIKI-」感想:自分の「限界」を知ること - 映画狂凡人

彼って女の子を可愛く撮ることにかけては、廣木隆一と並んで邦画最高レベルだと思うんですよね。女の子を可愛く撮るセンスは頭抜けてるのです。優しく包み込むような淡い照明と逆光、大切な場面ではじっくり長回しで間合いの緊張感を閉じ込める。本当に誠実にカメラの向こうの女優と向き合い、最高に可愛い瞬間をぎゅっと閉じ込めることに長けている人です。

あと、月川監督ってデートシーンを撮るのが上手いんですよね。「君の膵臓をたべたい」の博多デート、特にホテルでの「真実か挑戦か」ゲームのところなんて、ゾクゾクするほど素晴らしかった。今回もスマホを胸ポケットに忍ばせてお台場やら海やらをまわる場面は印象的です。片手に収まるデバイスあればこそのバーチャルデートになっています。これは完全に「her」を意識していますね。スマホを持ってぐるぐる回るシーンがありますが、ほとんど「her」そのまんまです笑 のちに触れますが、ラストの「ラ・ラ・ランド」的な反復も最高でした。あれがあるかないかで映画の出来は大きく違っていたと思います。

本作で思わぬ発見だったのが、今田美桜です。メイド喫茶のバイトの子を演じています。とっても可愛かった。彼女にデートに誘われても歯牙にも掛けない卓也の純愛と鋼の精神にもはや敬服するしかありません。また、この場面のロッカーの鏡の使い方が地味に秀逸でしたね。卓也にデータを断られ、困惑や悲しみを抱えながら、気丈に振る舞う彼女の「見せたくない顔」を見事に鏡を通して覗き込むことができるわけです。こういう工夫が作品のレベルを上げるんですよね。さすが月川翔!と言いたくなるワンシーンでした。

 

「ララランド」との類似点

本作はまみず以外にも「死」に関わる人物が二人出てきます。卓也の姉と、その彼氏ですね。卓也の姉の恋人はまみずと同じ発光病にかかり、命を落とします。姉はそんな彼氏の死から立ち直れず、自ら命を絶ってしまうんですね。これが卓也と彼の周りの人物に暗い影を落としているのです。しかし、僕はこの設定は余計だと思いました。原作ではどうなのか知りませんが、少なくとも映画ではあまりうまく機能していません。

いつでもどこでもスマホひとつで繋がれてしまう時代だから、昔別れた人はFacebookで探せるし、国境をまたいでもSkypeでお話しできます。そうなるとわかりやすい恋愛の障壁や別れを表現するとき、ますます「死」に頼ってしまうのかもしれません。でも、それってある意味不誠実です。死を軽々しく扱っている。裏返して言えば、生きることを軽々しく扱っていると思います。そういう点で、この映画も「死」そのものに関するシーンはとても陳腐に感じてしまいました。一方で、別れの痛みを引きずりながら、たとえばこんな過去もあり得たかもしれないって夢想するような、まみずというひとりの人間と時間を共有することへの卓也の切実な願いは響くものがありました。

卓也がまみずとの幸せなデータを夢見る終盤のシークエンスは「ラ・ラ・ランド」の明確なオマージュにもなっていましたが、この「ラ・ラ・ランド」で重要なテーマになっていたのが「時間の不可逆性」でした。月並みな表現ですが、人生は一回っきりです。そして「いま」の自分は、これまで積み重ねてきたたくさんの選択と、捨ててきた「もうひとつの未来」の上に成り立っています。どれだけ後悔しても時間を巻き戻すことはできません。だったら絶えず「いま」と「過去」に意味を与え続け、この瞬間を楽しむしかないんですよね。これはわりとどのドラマにおいても描かれている一般的なテーマだと思います(そういう見方しかできないのは視野が狭いとも言えますが)。

 

「死」と「青春」の関係について

またこうしたテーマは「青春」映画と非常に相性がいいと思います。80年以上ある人生で、仕事のことも考えず、ただ目の前の人やモノに全力で向き合い、好きなように生きられる学生時代って、それほど長くはありません。そして多くの青春映画においてこの時代はノスタルジーをかきたてる、「二度と戻らないもの」として描かれています。だから当然「刹那を大切に」というテーマと「青春」は噛み合わせがいいわけです。

そう考えた時、時間の有限性や不可逆性の切なさ、一瞬ごとの輝きを描く上で、「死」というのはやはり扱いが難しい題材だと思います。「死」というのは予めはっきりと終わりがわかっている、どう転がろうがある程度切なくて悲しい出来事が待っていることは100%なわけで、その中で観客の予想を乗り越える、驚きと感動をもたらすストーリーを作るのは本来簡単ではないはずです。逆にいうと、そういう「死」そのものに安く乗っかっちゃうような映画は、僕はつまらないと思います。「青春」という期間がそれだけで輝きのあるものだという見方も一面的ではありますが、せっかく面白い材料がありながら、人を死なせて涙を搾り取るような「余命」モノは、正直、あまりたくさん見たくはありません。「君は月夜に光り輝く」が決して安直な映画だとは思いませんが、「余命」モノのひとつに数えられることは事実ですし、企画の意図もそういう態度にあると感じられました。

 

永野芽郁北村匠海の魅力も全開だったし、月川翔監督ならではの演出には大いに満足だったのですが、もうそろそろこの手の映画は見なくてもいいかな、という気持ちになってきました。「女子高生のタイムスリップ」と「余命◯◯ヶ月」はそろそろやめませんか?