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「ヘレディタリー/継承」感想:彼らの生と死に「意味」はあるのか

こんにちは。じゅぺです。

今回は話題のホラー映画「ヘレディタリー/継承」について。

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「ヘレディタリー/継承」は、祖母の死をきっかけに様々な恐怖に見舞われる家族を描くホラー映画です。

最近、ホラー映画って奥が深いなあと感じるようになりました。僕らはホラー映画を見るとき、予想もしなかった理不尽な出来事が起こったり、主人公たちが絶望的な状況に追い込まれることを期待します。で、そこには必ず「死」が絡んでくるんですね。死の恐怖が描かれなければ、それはホラー映画とは言えないとすら思います。作り手はいかに「死」を描くかに執心します。もはやありきたりなパターンの「死」は面白くない。「死」は突然訪れる、避けがたいものだから恐ろしいのだし、そこにドラマが生まれ、エンターテイメントになるのです。たしかにベタなパターンで人が死んで面白い場合もありますが、それがホラー映画の王道な楽しみ方というと、違うでしょう。あの手この手で見る側の予想を超える「死」の興奮を与えることが作り手の使命なのです。

そして「死」が目前に迫れば人は「生きたい」と願います。つまり、ホラー映画は必然的に「死」とその裏側にある「生」を描くことになります。当然、「死」を自覚した「生」のあり方や、神の存在も絡んできます。扱うテーマが非常に抽象的になるんですね。作り手も「死」の象徴を映像的に目に見える形にする上で、様々に工夫を凝らすことができます。たとえば、それはストレートに悪魔やゾンビの姿で登場することもあるし、「イット・フォローズ」のようにセックスに仮託されることもあります。ホラー映画って本当に自由なジャンルですよね。

前置きが長くなりましたが、「ヘレディタリー/継承」はどのような物語になっていたでしょうか。この映画で重要になってくるのは、つまるところ「家族は呪縛だ」ということです。家族は逃れられない枷であり、心身を蝕んでいく呪いでもあります。本作では、とある一家が祖母の死をきっかけに恐ろしい事態に巻き込まれていくわけですが、その原因を辿ると、彼らが家族であることに行き着きます。妹が死んだのは、母が彼女の世話を兄に押し付け、その兄も遊びに夢中で妹をほったからしにしたからです。家族に降りかかる呪いが悪化したのも、母が怪しげなスピリチュアル体験に傾倒したから。父は崩壊した家族の関係を修復するように努めることもしません。兄は自分が妹を殺したのだという現実を受け止めきれず、徐々に弱っていきます。このジワジワと内面から責められていく感じはとっても不快で、最高に興奮しました。いまどきは「疑似家族」の物語が流行りですが、あえてその逆をいっていますからね。血縁は呪いであると。すさまじく意地が悪く、どす黒い作品だと思います。

しかし、ラストまで見ればわかる通り、この映画は「家族」よりさらに深いレイヤーが存在する、重層的なお話になっています。鳩の死体、蟻の群れ、「コッ…」という舌打ちの音など、嫌悪感をあおるイメージをちりばめ、場面ごとに異なる意味合いを与えて中身を膨らませて、最終的には一つの答えに収束していく構造になっていて、「一家は悪魔に操られている駒だった」ということがわかる構造になっているのです。

非常に衝撃的なラストですが、実は作中のいたるところにこの真実を示唆するモチーフが散りばめられていました。たとえば、ファーストカットから登場する「ミニチュア」は、一家がペイモンにとってはどう映っているのかをビジュアルで示すアイテムです。所詮、どれだけ恐怖に怯え、死の運命に抗おうとしようとも、ペイモンは彼らを自由に操ってしまうことができるわけです。また、妹が鳩の首を切り落とす場面はこの家系の女性が代々首なしの死体としてペイモンに捧げられていることを暗示しています。兄が国語の授業を受ける場面では、悲劇の定義が語られていました。そこで「悲劇とは他に選択肢がなくなること」であるという言葉が出てくるのですが、これは一家の運命のことを言っています。彼らの悲劇的な死は、はじめから予言されていたのです。

しかし、僕はこのオチがあまり気に入っていません。それまで描かれてきた体験の得体の知れなさや理不尽さからくる恐怖や気持ち悪さは薄れてしまったと思います。

「自分の人生の選択はすべて悪魔に導かれていた」ことを絶望として捉えるのが素直な解釈でしょう。ひたすら悪魔の仕業に抗ってきたのに、それはすべて無意味で、畢竟ペイモンを受け入れる器を作るための存在でしかなかったわけです。自由意志だと思っていたものもすべて偽物だったのですから、これまで頑張ってきたのはなんだったんだ!となります。

一方で、最初から最後まで変更の余地がなかったのなら、はじめから彼らがペイモンに捧げられることが決まっていたのなら、彼らの不幸にも意味はあったということにはならないでしょうか。家族みんな無残に死んでいったが、最後に祝福が与えられるのです。ちゃんとペイモン様のお役に立ちましたよと。だったら理不尽とは言えないのではないかと思ってしまいます。僕はここに至るまでの予測不能性や理不尽さに面白さを感じていたので、ここはしっくり来ませんでした。たしかに自分の人生を自分でコントロールできていないので理不尽といえば理不尽だけど、おばあちゃんはその役割を自覚していたし、本来なんの意味もないはずの生と死の意味を、彼らは最初から与えられているのです。家族みんな死んでしまった長男にとって、これって最高のハッピーエンドじゃないでしょうか。彼は選ばれし者で、自分は器でしかないけど、ある意味では居場所を与えられていらからです。

でも、そこまでの意味づけをこの映画の中ですべきだったのだろうか、とも思います。もっとぼやかすか、もしくはその残酷でいて幸せな運命を、クライマックスに入る前に示しても面白かった。そしたら、「選べない」ことの理不尽さが強調されたかも知れない。なんてことを考えてしまいました。

ちなみに話は逸れるますが、興味深いのが、ファーストカットとラストカットで暗示されるように、一家⇆悪魔の関係が、ジオラマ⇆製作者(母親)、さらには映画の登場人物⇆映画の作り手(監督)の関係に重ねられていることです。一家はペイモンの手先であると同時に、映画の作り手の手先でもあります。しかも観客はこの関係から疎外されているのです。作り手の手先ですらなく、ただ傍観する部外者になってしまいます。じゃあ俺たち観客の立場はどうなるのよという気がしなくもないし、ひとって常に他者の傍観者でしかいられないのでしょうか、とは思ってしまうのです。「ヘレディタリー/継承」は、シンプルでいて複雑に線を張り巡らせているがゆえに、とても危険な矛盾を孕んだ作品になっていると思います。見応えのある映画でした。