映画狂凡人(映画感想ツイート倉庫)

さいきん見た映画の感想を書いています。ネタバレありなので未見の方は注意してください。

「シュガー・ラッシュ:オンライン」感想:人は常に孤独な存在であるということ

こんにちは。じゅぺです。

今年最後の映画レビューはこの映画にしました!「シュガー・ラッシュ:オンライン」です。

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シュガー・ラッシュ:オンライン」は、レトロなゲームセンターのアーケード中に暮らすヴァネロペとラルフが「シュガー・ラッシュ」を危機から救うためにネット空間を旅するアニメーション映画です。前作「シュガー・ラッシュ」から6年経った二人が描かれています。

 

シュガー・ラッシュ」のエッセンス

僕は「シュガー・ラッシュ」がディズニー映画の中でもトップクラスに好きです。

第一に、ヴァネロペちゃんが大好き。苛酷な過去を背負いながら、好奇心と天真爛漫さを失わず、いつもレースに一生懸命なところが素敵です。日本語吹き替え版の諸星すみれもあどけなさの残る子どもっぽさが可愛らしい。

このお話の行きつくゴールも大好きです。主人公のラルフは「フィックス・イット・フェリックス」の悪役で、ゲーム内で建物を破壊してはフェリックスに屋上の上から突き落とされることを役割としています。横暴な性格も災いして、彼はゲームセンターの嫌われ者です。カウンセリングに通っても効果はありません。自分の境遇が気に入らない彼は「自分もちやほやされたい!」と外の世界に飛び出してしまいます。そして、波乱の末に「シュガー・ラッシュ」に行き着いたラルフは、そこで仲間たちからいじめられている少女・ヴァネロペに出会います。やがてラルフは「シュガー・ラッシュ」に隠された陰謀に気づき、ヴァネロペと共に真の敵と戦う中で固い友情を育んでいきます。好きなのはそのラストです。あれだけ「ヒーローになってみんなにちやほやされたい」と嘆いていたラルフですが、ヴァネロペという唯一無二の親友と出会い、彼女にとっての「ヒーロー」なることで、考えを改め始めます。ラスト、ラルフは悪役としてフェリックスたちに突き落とされる建物の屋上から、ゲーム画面の遠い向こう側にある「シュガー・ラッシュ」のゲーム台を見つめます。大親友の活躍をいちばん近くで見られるのは、悪役の彼しか上ることのできないビルのてっぺんなのです。たしかにラルフはみんなの嫌われ者かもしれないけれど、彼本人はこの「悪役しか見られない景色」がとても気に入っているのだ、というオチになっているのです。

僕が感動したのは、ディズニーが「誰もがみんなのヒーローになる必要はない」というお話を見せてくれたことです。大切な一人のためのヒーローになることもできるし、悪役にだって悪役なりの「景色」があるのです。一面の正義を押し付けるのではなく、あなたにはあなたの世界の見え方があるはずだと肯定してくれる、見る人が自分の人生を重ねられる多面的な物語になっています。

 

「そこまでやるか!」ディズニー

シュガー・ラッシュ:オンライン」もラルフとヴァネロペの友情がテーマになっていて、ラストの描写がとても重要なのですが、その前に本作もうひとつのテーマであるディズニー・プリンセスの物語の継承について触れます。

予告編公開時すでに話題になっていた通り、自社コンテンツやネット世界の徹底したカリカチュア、小ネタやパロディには「そこまでやるか!」と驚きました。散りばめられたネットカルチャーのミームに関しては一過性の要素が強く、はたして数十年後まで賞味期限を保っているかは疑問なところですが、あるあるネタは素直に楽しめました。怪しげなポップアップ広告の擬人化や「いいね」集め合戦、心ないネットの誹謗中傷コメントの数々など、かなり直接的にネットの問題に切り込んでいて、どちらかというと「普遍的」な題材を扱う傾向にあるディズニーには珍しい試みだと思いました。

 

ディズニー・プリンセスの現代的解釈の総決算

その小ネタ群の中でも話の本筋と大きく絡んでくるのが「プリンセス専用」の部屋の女性たちです。これまでディズニーはプリンセスの物語の再定義に腐心してきました。「白雪姫」や「シンデレラ」で語られてきたのは「白馬の王子様」を待ち続ける少女の夢と幸せでした。しかし、それらは女性の幸せの形を押し付ける呪縛であるとしてフェミニズムの痛烈な批判を受けるようになります。90年代以降の「リトル・マーメイド」や「美女と野獣」はこうした時代の流れを受け止めた内容になっており、ディズニーは徐々に「白馬の王子様」願望を離れ、新たなプリンセス像を模索し始めます。最終的に「アナと雪の女王」や「モアナと伝説の海」でたどり着くのは、ディズニー・プリンセスは「ここではないどこか」を求め続ける人びとの願望の象徴であるという新解釈です。「いつか白馬の王子様に求婚されたい」という白雪姫やシンデレラの願望を「ここではないどこか」へ行きたいという、新しい世界への冒険心に読み替え、より広義なディズニー・プリンセスの位置付けを目指したのです。本作「シュガー・ラッシュ:オンライン」のヴァネロペは、こうした新たなディズニー・プリンセスの定義と照らし合わせたとき、まさしく新時代のプリンセスと言えると思います。

本作「シュガー・ラッシュ:オンライン」では、ヴァネロペが「シュガー・ラッシュ」を飛び出し、新しい世界を知ります。同じルートのルーティンに飽き飽きしていたヴァネロペにとって、日々予想もできない危機が訪れるオンラインゲーム「スローターレース」の世界は、非常に刺激的でした。現状に不満を抱いていた彼女の目にオンラインゲームの世界がどれほど輝かしく映ったか、その衝撃と感動は非常に大きいものでした。そして、彼女の想いは外の世界に憧れ、飛び出そうともがいてきたディズニープリンセスの「先輩」たちの冒険に連なっていくのです。

余談ですが、今回ヴァネロペを導くのが、パワフルで凛々しい女性レーサー・シャンクであったのも、これまで「白馬の王子様」の呪縛から脱しようともがいてきたディズニーの試みに重なる部分があります。女の子が人生を切り開くのに「男」は必要ないという解釈もできるかもしれません。そしてディズニー・プリンセスがヴァネロペのファッションに影響を受けてTシャツを着るようになる場面も面白かったですね。スカートを脱いでTシャツとジーンズ姿になるのって、そのまま第二波フェミニズムの活動のイメージですよね。ここは小ネタ程度の扱いだとは思いますが、興味深かったです。

 

親友でも他人は他人

話を戻しましょう。ラルフは「スローターレース」へ旅立とうとするヴァネロペの挑戦を、阻止しようとします。彼にとってヴァネロペは唯一の親友であり、悪役として生きる日々に安らぎと潤いを与えてくれる存在です。ラルフは自分の価値を「ヴァネロペのヒーローであること」に依存していたのでした。そして、ヴァネロペが「ラルフ」と「スローターレース」を天秤にかけて、後者を選んだのだと勘違いするんですよね。じっさい、いくら親友であろうとも常にその人のことを考えているわけでもないし、まして自分の人生の岐路に立ったとき、必ずしも親友の方を選ぶ義理はないのですが。ラルフはヴァネロペに依存していたので、相手も当然自分と同じように考えているだろうと思い込み、彼女に裏切られたのだとショックを受けてしまいます。

一方、ヴァネロペは溌剌として好奇心旺盛、誰とでも仲良くなれる人なつっこさがあります。また、移り気で飽きっぽい性格で、つねに刺激を求めています。レーサーとしての性でしょうか。ラルフとは親友でありながら、性格も、興味の対象も、結構ちがうのです。これが嫌われ者で粘着質なラルフとの対比になっていて、非常に残酷でもあります。たとえいつも一緒にいる人であっても、他人は他人なのです。

しかし、ラルフはそのことを理解できず、ヴァネロペの愛する「スローターレース」のプログラムにウイルスを仕込んでしまいます。ウィルスはやがてインターネット全体を危機に陥れることになり、またしても彼は「破壊」をしてしまうのです。思えば、ヴァネロペが「シュガー・ラッシュ」を失ってしまったのも、ラルフの「破壊」が原因でした。そして彼はヴァネロペとの関係すら「破壊」してしまいます。クライマックスの巨大ラルフとの戦いは、ラルフにとって親友の変化を受け入れられない内面との戦いでもあるのです。

 

シュガー・ラッシュ」ラストとの繋がり

巨大ラルフとの戦いを終え、二人はお互いが親友であることを再確認します。しかし、もうその関係は前のものとは違っていました。ヴァネロペは「スローターレース」の世界で刺激的な毎日を過ごすことを選び、ラルフはそんな彼女を応援し、ゲームセンターの仲間たちと新たな人生を始めることを決心したのです。今度はラルフは本当の意味で自分の孤独と向き合いながら、ヴァネロペがいなくても感じられる「幸せ」を探す段階に入ったのです。

映画のラスト、ヴァネロペとの電話を終えたラルフはゲームセンターのエントランスホールの窓の外を見つめます。彼は、大親友だからこそ、本当はいつまでも一緒にいたい気持ちを抑えて、ヴァネロペの夢を後押しするためにバラバラに暮らす道を選びましま。そう、もはや「シュガー・ラッシュ」のラストで彼が愛おしく感じていた、あの「悪役しか見られない景色」は戻ってこないのです。もはやビルのてっぺんから眺めても、ヴァネロペはそこにいません。「シュガー・ラッシュ」のラストと対照的なシーンを見せることで、ラルフとヴァネロペの関係性の変化を表現した見事な演出だと思います。

 

離れていても、二人は友だち。だけど、その裏には、いくら大切な人でも他人は他人、すべてが自分の思い通りにはいかないのだという、当たり前だけど、特にラルフにとっては残酷な現実が隠れています。孤独は常につきまとってくるものであり、そこから逃げることはできないのです。天窓から差す淡い光の筋を見つめるラルフの背中が頼もしく、しかしとても寂しそうに見えました。晴れ晴れしくも切ないラストでした。大傑作です。

「ROMA/ローマ」感想:極上の映像詩でつづる人生賛歌

こんにちは。じゅぺです。

今回は僕的2018年ベスト映画の一本「ROMA/ローマ」についてお話しします。

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舞台はメキシコシティ、ローマ地区。激動の70年代メキシコに生きる女中・クレオの物語が描かれています。監督のアルフォンソ・キュアロンは、幼少期をローマ地区で過ごしたそうで、本作は自分を育ててくれた女中さんに愛と感謝を捧げて作った映画だそうです。

「ROMA/ローマ」は、物語よりも「映像」での語りが面白い作品です。僕の中いかに「目に見えるもの」と「耳で感じられるもの」で「心」を動かすかが映画の力なのだとしたら、本作は間違いなく「純映画的」な映画だと思います。一つひとつのショットの構成、没入と一体感をもたらす長回し、劇中に散りばめられたモチーフの数々、画面外に世界を拡張する音響、そしてそれらを組み合わせる編集。すべてが有機的に結びついて、ひとりの女性の人生にたしかな手ざわりと温もり、そして実体を与えています。それぞれの要素について個別に考えてみましょう。

まず、本作はモノクロで撮影されています。しかし、光と闇のグラデーションでスケッチされたクレオの日常には、たしかに鮮やかな「色」があります。タイルを滑る水、子どもを飲み込む波、家の庭から見上げる空。モノクロでありながら、いや、モノクロだからこそ、それぞれの観客の目には脳内の記憶から再生されたリアルな質感が浮かぶのです。あまりに現実味があるから、まるで自分がクレアと同じことを体感したかのように錯覚してしまいます。もはや五感でクレアと共鳴しているのです。

また、パンを多用した長回しは、画面に映らない世界の広がりと奥行きを伝え、小鳥のさえずりや草の揺れる音すら聞こえる立体的なサウンドは、目で拾いきれないディテールを耳に刻み込みます。正直、映画館で見られなかったことを恨みました。僕の家の古いテレビの音響ですら、包まれるような感覚におそわれたのですから、劇場の音響で体感していたら、きっとすさまじい快感だったろうと思います。

そして、カメラが映す光景は常に絵画のように完璧なバランスです。多くの人が指摘しているように、フェリーニの作品に近い味わいがあります。さらにそれがカメラが動いても崩れないのが恐ろしいのです。そのうち直前の美しいショットが残像として目に焼き付いたまま、その余韻が蓄積され続けていく感覚になります。映像は動いているのに、いつまでも静止画を眺めているような感動が襲ってきました。初めて見る映画なのに懐かしさすら覚えます。やはり目と耳と記憶が刺激される中で、体に染み込んだ感覚と経験が呼び覚まされ、映像の中に自分が放り込まれたような錯覚に陥るのでしょう。

穏やかなタッチで分かりにくいけど、描いていることはとても激しいものです。生と死のイメージを反復し続けています。妊娠検査に来た病院でクレアを襲う小さな地震と、赤ちゃんのケースの上に落ちる砂ぼこりは、これからクレオが産む赤ちゃんに良からぬことが起こることを予感させます。パーティーの会場で床に落ちて割れる「杯」は、そのままクレオの「子宮」を連想させます。つまり「杯」=「子宮」の破壊が、彼女の子どもの死産を予言しているのです。壁に並べられた犬のはく製も不気味に映され、明確に死のイメージとして提示されています。ファーストカットの掃除の水から始まって、本作では羊水を連想させる「水」のイメージが散りばめられています。海水浴場で子ども達を襲う波は象徴的でした。クレオには、肉体的にも精神的にも徹底して「母」としてのあり方が与えられているのです。

この映画は「女性」としての生き様や、厳しい階級社会を描いている点で、時代性を持った作品でもあります。男は暴力と無関心の象徴として位置付けられていて、クレオの人生の障壁として何度も彼女の前に立ちはだかります。しかし、それは政治的なイデオロギーや啓蒙につながるものではありません。もっと個人的かつ普遍的な内容だと思います。やや理想主義的な匂いを感じなくはないけども、戦いや反抗ではなく、ここで描かれているのは、あくまで愛と感謝なのです。「ROMA/ローマ」で描かれている出来事は、クレオの長い人生のアルバムのほんの一部に過ぎません。ラストカットで空を見上げたカメラが階段の上に捉えた飛行機が、ファーストカットの水に反射していた飛行機と重なる円環構造が物語っているように、クレオの日常はこれからも続くし、きっとこの先も苦難に満ちています。それでも彼女はたくましく生きるのでしょう。最初と最後のたった二つのカットで、画面に映らないクレオの人生の「これまで」と「これから」を表現してしまうところに、とてつもない感動を覚えました。「母」として家族を支えるクレオの温もりと優しさに溢れた作品です。超絶大傑作!

「来る」感想:秀樹たちを襲う「ぼぎわん」の正体とは?

こんにちは。じゅぺです。

「ヘレディタリー/継承」の記事でも書きましたが、最近ホラー映画の奥深さにハマっています。というわけで今回は「来る」について。

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「来る」は、幸せな新婚生活を送っていた秀樹を襲う謎の力「ぼぎわん」の恐怖を描くホラー映画です。「ぼぎわんが、来る」というタイトルのホラー小説が原作になっています。今回の記事は「ぼぎわん」の正体の考察を中心に進めていこうと思います。

本作にはホラー映画の面白さを期待していたのですが、意外にもホラー描写以外の部分が楽しめました。グロテスクで大げさなオープニングが既にホラーというジャンルを超えたエンタテイメントであることを予感させます。もちろん得体の知れない「ぼぎわん」が猛威を振るう中盤はホラーとして申し分ない面白さであり、呪いの力で人の腕がもげたり、家の中のお札がバラバラに千切れたり、とにかく不可思議な現象だらけで、それはもうすごいことになってます。勢いがあるんですよね。悪夢を通り越してもはやコントと言ってもいい無茶苦茶な不幸のつるべ打ちに圧倒されてします。

また「ぼぎわん」に振り回される中であぶり出されていく人間の薄っぺらさや身勝手さに震え上がります。ここは純粋なホラーとは違った恐怖がありました。後ほど触れますが、ここに「ぼぎわん」の正体のヒントが隠されています。

そしてクライマックスはパワフルな除霊バトルへ。「哭声/コクソン」のようなド派手で(明らかにホラーというよりコメディに寄せている)荒唐無稽な儀式は、あまりにアホらしくて思わずニッコリしてしまいました。お坊さんも除霊師も巫女も同じ舞台で舞い「ぼぎわん」と戦います。神仏習合の日本らしいバトルです。これまで見たことのない光景に興奮してしまいました。

最後に考えたいのが「ぼぎわん」の正体です。ヒントとなるのは、ケガレへの忌避、不幸な環境の連鎖、(作り手がどこまで意識していたかはわかりませんが)日本社会のミソジニーでしょう。

まず「ぼぎわん」は前半の主人公・秀樹の出身集落に伝わるお化けです。「ぼぎわん」に名前を呼ばれると、向こうの世界に引きずり込まれてしまうと言われています。彼は幼少期の頃から「ぼぎわん」がそばにいることを認知しており、大人になってからは意識的にその記憶を封じ込めようとしていました。「ぼきわん」の記憶に結びついてくるのは、失踪した同級生の女の子や寝たきりだった祖父です。ここには明らかに死の匂いを感じます。加えて、この集落では「子捨て」の習慣があったことが明かされています。秀樹の友人の民俗学者・津田も、子を連れ去る妖怪の類いは「子捨て」を隠蔽するための言い訳や建前に過ぎなかったのだと語っていましたね。

また、ファーストカットから綴られる秀樹の幼少期のトラウマでは「握りつぶされた蝶々」と「地面に転がる多数の芋虫」のイメージが示されていました。この芋虫の群れは「ぼぎわん」が「来る」ときのモチーフとしてこのあと繰り返し登場します。

いちばん「正解」に近いと思われる描写は野崎の悪夢です。「ぼぎわん」に取り憑かれた一家を救うために秀樹が頼ったライターの野崎は、実は妻に妊娠した子どもを堕胎させていて、そのことをずっと悔やんでいたのです。物語も佳境に差し掛かった後半、野崎が自分の子供を抱えたまま川に入水すると、周囲におびただしい数の赤ちゃんが浮いているという非常に気味の悪い夢のシーンがあります。この赤ちゃんは明らかに芋虫の群れと重なる描写になっていて、だいたい見ていてここら辺で「ぼぎわん」の伝承の意味はわかるようになっています。

すなわち、集落の言い伝えや秀樹たちのトラウマから分かるのは「ぼぎわん」が死を連想させる穢れの忌避や、古来日本の村落で繰り返されてきた悲しい風習に密接な関わりがあることです。素直に解釈すれば、「ぼぎわん」は、これまで大人の都合で殺されてきた無数の赤ちゃんたちの怨念や怒りの集合体です。芋虫の群れは未発達の胎児のモチーフであり、握りつぶされた蝶々はそんな幼い命たちが「羽ばたく」前に芽を摘まれてしまったことのメタファーでしょう。育児放棄して自分を良く見せることに腐心していた秀樹は「ぼぎわん」の目に留まり、残念ながら恐怖に打ち勝つことができず、負けてしまいました。秀樹の妻・加奈も同様で、結局最後は子育ての重圧に耐えられず、子どもの虐待に走ってしまい、「ぼぎわん」に呪い殺されてしまいました。

しかし「ぼぎわん」に殺されたのは、必ずしも子育てに関わる人びとだけではありません。もちろん、秀樹や加奈に取り憑く中でその力を増し、誰彼かまわず呪い殺すようになったと解釈するのもいいのですが、僕はもう一歩踏み込んでその意味を考えてもいいと思っています。

おそらく「ぼぎわん」は誰の人生にも潜んでいるものです。それは「痛み」です。クライマックスの除霊バトルを目前に控え、野崎は霊媒師に以下の内容のことを言われます。「ここからの戦いは非常に危険なのでこちらの世界とあちらの世界の境目が曖昧になります。自分がどちらにいるかわからなくなった時はナイフで自分の手を刺しなさい。痛みがあなたをこちらの世界に呼び戻します」と。これは非常に重要なセリフだと思います。つまり「ぼきわん」は「痛み」と向き合えない人にやってくるのです。当然、現実に向き合わず「子捨て」に走ってしまうことは「痛み」からの逃避でしょう。イクメンパブログの執筆で悦に入っていた秀樹も、夫の愚行に耐えられず浮気に走ったり育児放棄をした加奈も、そんな彼女の弱みにつけこんだ津田も、みんな「痛み」から目を背けています。もちろん堕胎の過去を忘れようとした野崎も、完ぺきな除霊しに見えた琴子も、その妹の真琴も、生身の人間である以上、常に「痛み」と真正面から向き合えるとは限りません。時には逃げたくなる時だってあります。

でも、そんな苦しい時でも「痛み」=「ぼぎわん」と戦えるかどうかが、人生の軌道を元に戻せるかどうかの分かれ目なのです。野崎と真琴は壮絶な戦いの中で「痛み」に打ち克ち、知沙を授かることができたのです。あくまでホラー映画的な「子捨て」の伝承と絡めた「ぼぎわん」の正体を示しつつも、もう一段深いレイヤーにも読解の余地を残したところが秀逸なお話だったと思います。良作でした。

「ヘレディタリー/継承」感想:彼らの生と死に「意味」はあるのか

こんにちは。じゅぺです。

今回は話題のホラー映画「ヘレディタリー/継承」について。

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「ヘレディタリー/継承」は、祖母の死をきっかけに様々な恐怖に見舞われる家族を描くホラー映画です。

最近、ホラー映画って奥が深いなあと感じるようになりました。僕らはホラー映画を見るとき、予想もしなかった理不尽な出来事が起こったり、主人公たちが絶望的な状況に追い込まれることを期待します。で、そこには必ず「死」が絡んでくるんですね。死の恐怖が描かれなければ、それはホラー映画とは言えないとすら思います。作り手はいかに「死」を描くかに執心します。もはやありきたりなパターンの「死」は面白くない。「死」は突然訪れる、避けがたいものだから恐ろしいのだし、そこにドラマが生まれ、エンターテイメントになるのです。たしかにベタなパターンで人が死んで面白い場合もありますが、それがホラー映画の王道な楽しみ方というと、違うでしょう。あの手この手で見る側の予想を超える「死」の興奮を与えることが作り手の使命なのです。

そして「死」が目前に迫れば人は「生きたい」と願います。つまり、ホラー映画は必然的に「死」とその裏側にある「生」を描くことになります。当然、「死」を自覚した「生」のあり方や、神の存在も絡んできます。扱うテーマが非常に抽象的になるんですね。作り手も「死」の象徴を映像的に目に見える形にする上で、様々に工夫を凝らすことができます。たとえば、それはストレートに悪魔やゾンビの姿で登場することもあるし、「イット・フォローズ」のようにセックスに仮託されることもあります。ホラー映画って本当に自由なジャンルですよね。

前置きが長くなりましたが、「ヘレディタリー/継承」はどのような物語になっていたでしょうか。この映画で重要になってくるのは、つまるところ「家族は呪縛だ」ということです。家族は逃れられない枷であり、心身を蝕んでいく呪いでもあります。本作では、とある一家が祖母の死をきっかけに恐ろしい事態に巻き込まれていくわけですが、その原因を辿ると、彼らが家族であることに行き着きます。妹が死んだのは、母が彼女の世話を兄に押し付け、その兄も遊びに夢中で妹をほったからしにしたからです。家族に降りかかる呪いが悪化したのも、母が怪しげなスピリチュアル体験に傾倒したから。父は崩壊した家族の関係を修復するように努めることもしません。兄は自分が妹を殺したのだという現実を受け止めきれず、徐々に弱っていきます。このジワジワと内面から責められていく感じはとっても不快で、最高に興奮しました。いまどきは「疑似家族」の物語が流行りですが、あえてその逆をいっていますからね。血縁は呪いであると。すさまじく意地が悪く、どす黒い作品だと思います。

しかし、ラストまで見ればわかる通り、この映画は「家族」よりさらに深いレイヤーが存在する、重層的なお話になっています。鳩の死体、蟻の群れ、「コッ…」という舌打ちの音など、嫌悪感をあおるイメージをちりばめ、場面ごとに異なる意味合いを与えて中身を膨らませて、最終的には一つの答えに収束していく構造になっていて、「一家は悪魔に操られている駒だった」ということがわかる構造になっているのです。

非常に衝撃的なラストですが、実は作中のいたるところにこの真実を示唆するモチーフが散りばめられていました。たとえば、ファーストカットから登場する「ミニチュア」は、一家がペイモンにとってはどう映っているのかをビジュアルで示すアイテムです。所詮、どれだけ恐怖に怯え、死の運命に抗おうとしようとも、ペイモンは彼らを自由に操ってしまうことができるわけです。また、妹が鳩の首を切り落とす場面はこの家系の女性が代々首なしの死体としてペイモンに捧げられていることを暗示しています。兄が国語の授業を受ける場面では、悲劇の定義が語られていました。そこで「悲劇とは他に選択肢がなくなること」であるという言葉が出てくるのですが、これは一家の運命のことを言っています。彼らの悲劇的な死は、はじめから予言されていたのです。

しかし、僕はこのオチがあまり気に入っていません。それまで描かれてきた体験の得体の知れなさや理不尽さからくる恐怖や気持ち悪さは薄れてしまったと思います。

「自分の人生の選択はすべて悪魔に導かれていた」ことを絶望として捉えるのが素直な解釈でしょう。ひたすら悪魔の仕業に抗ってきたのに、それはすべて無意味で、畢竟ペイモンを受け入れる器を作るための存在でしかなかったわけです。自由意志だと思っていたものもすべて偽物だったのですから、これまで頑張ってきたのはなんだったんだ!となります。

一方で、最初から最後まで変更の余地がなかったのなら、はじめから彼らがペイモンに捧げられることが決まっていたのなら、彼らの不幸にも意味はあったということにはならないでしょうか。家族みんな無残に死んでいったが、最後に祝福が与えられるのです。ちゃんとペイモン様のお役に立ちましたよと。だったら理不尽とは言えないのではないかと思ってしまいます。僕はここに至るまでの予測不能性や理不尽さに面白さを感じていたので、ここはしっくり来ませんでした。たしかに自分の人生を自分でコントロールできていないので理不尽といえば理不尽だけど、おばあちゃんはその役割を自覚していたし、本来なんの意味もないはずの生と死の意味を、彼らは最初から与えられているのです。家族みんな死んでしまった長男にとって、これって最高のハッピーエンドじゃないでしょうか。彼は選ばれし者で、自分は器でしかないけど、ある意味では居場所を与えられていらからです。

でも、そこまでの意味づけをこの映画の中ですべきだったのだろうか、とも思います。もっとぼやかすか、もしくはその残酷でいて幸せな運命を、クライマックスに入る前に示しても面白かった。そしたら、「選べない」ことの理不尽さが強調されたかも知れない。なんてことを考えてしまいました。

ちなみに話は逸れるますが、興味深いのが、ファーストカットとラストカットで暗示されるように、一家⇆悪魔の関係が、ジオラマ⇆製作者(母親)、さらには映画の登場人物⇆映画の作り手(監督)の関係に重ねられていることです。一家はペイモンの手先であると同時に、映画の作り手の手先でもあります。しかも観客はこの関係から疎外されているのです。作り手の手先ですらなく、ただ傍観する部外者になってしまいます。じゃあ俺たち観客の立場はどうなるのよという気がしなくもないし、ひとって常に他者の傍観者でしかいられないのでしょうか、とは思ってしまうのです。「ヘレディタリー/継承」は、シンプルでいて複雑に線を張り巡らせているがゆえに、とても危険な矛盾を孕んだ作品になっていると思います。見応えのある映画でした。

「ギャングース」感想:想像の向こう側にいる人たち

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ギャングース」について。

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ギャングース」は、少年院上がりでバイトにすら雇ってもらえない底辺の3人が、起死回生の策に打って出る青春クライムサスペンスです。

監督は入江悠。彼の代表作といえば「SR サイタマノラッパー」ですが、この映画でもニートの男たちがつまらない日常から抜け出そうとラップに打ち込む姿が描かれていました。本作「ギャングース」では「身分証を手に入れて普通の仕事をしたい」という願いを叶えるために盗みを働くという、この映画を見られる環境にいる人からすれば信じられないほど壮絶な状況に生きる若者たちが主人公です。

サイケ、カズキ、タケオの3人は毎日虫けらみたいに踏みつけられて、帰る家もない絶望的な状況でも、生きることは諦めません。けっして「死にたい」なんて言わないんですよね。一貫して真っ当に暮らしたいと願っています。ほとんど抜け出せないんじゃないかと思いたくなる絶望的な状況で、地面に這いつくばって泥水をすすりながら前に進もうとする3人の生き様に、見てからこっちも心がボロボロになりそうになりますが、それでも彼らの心と体は最後まで耐え続けます。僕だったら、もう我慢できずに諦めてしまうかもしれません。彼らはとっても強い人たちです。何度殴られても必死になって立ち上がろうとする彼らの勇気と胆力こそ、「生きること」の強烈な肯定になっているのではないでしょうか。

彼らは、犯罪が絡んでいるために被害届を出さないワケありの品や金を奪う窃盗によって生計を立て、自分たちの夢を実現するために貯金しています。彼らの行動は決していいことではないし、なんなら他人を傷つけまくってるわけですが、でも、その動機は「まともになりたい」という純粋なものだし、八方ふさがりの追い込まれた状況だから、否定することはできません。

外から見えているものと内から見えているものは違うという当たり前のことが、この映画では描かれています。肥える者はどんどん肥え、そうでない人間は養分にされていく世の中において、誰だって守りたいものはあります。「世間」から見れば、この3人はちっぽけでセコいコソ泥かもしれません。けど、彼らだって必死に生きています。無神経に「犯罪者」を断罪する前に、なぜ彼らがそんなことをしなければならないところまで追い込まれてしまったのか、を考える必要があると思います。暴力や貧困は連鎖するものであり、生まれ育った環境によっても大きく左右されます。日常の生活に困らない豊かな環境で暮らしていたら、わざわざコンビニでカップ麺を盗む必要もありませんから。

この辺の話は「万引き家族」でも描かれていましたが、残念ながら日本もそのような作品が「現代の社会を映し出している」と受け止められるほどには、格差が進み、より貧しい国になっているということです。

さらに残念なのは、そういう現実を信じられず、映画の方に難癖をつけたり、製作者を「反日」呼ばわりする人たちがいることです。「万引き家族」や「ギャングース」で大切なのは、まさしく僕たちが普段関わることのない世界の人びとの苦しみに触れ、自分たちがこれからどうすべきなのかを考えることだと思うのですが。他者への共感を強制することまではしないでも、厳しい環境に置かれている人たちがたくさんいるのだということを、みじんも想像できない、もしくは分かっていても受け入れられない人たちがネットで可視化されるレベルでいるというのは、非常に危機的状況だと思います。「万引き家族」や「ギャングース」は描かれる内容ももちろんグロテスクで耐え難いものですが、それ以上にこれらの映画(というか「万引き家族」)に対する心ない反応にショックを受けてしまいました。

「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」感想:分断を叫ぶカリスマに既視感

こんにちは。じゅぺです。

今回は「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」について。

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ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」は、大人気ファンタジーハリー・ポッター」シリーズの外伝第2作です。スキャマンダーと魔法動物の交流が中心だった前作に対し、グリンデルバルドの野望が動き出し、よりダークな作風になっています。また、ダンブルドア校長など「ハリー・ポッター」とのつながりを強く感じさせるキャラクターが登場し、一層「ハリー・ポッター」シリーズの世界観を深く楽しめる作品になっています。

しかし、どうでもいい話なのですが、僕は「ハリー・ポッター」シリーズにほとんど触れたことがありません。せいぜいテレビで放送していた「賢者の石」と「秘密の部屋」をみたことがある程度です。「黒い魔法使いの誕生」は、かなり情報量の多い作品で、山ほど固有名詞が登場します。しかも、それが「ハリー・ポッター」シリーズに出てくる設定と絡めたものになっているらしいんですよね。ハリポタ音痴の僕はダンブルドアぐらいしかわかりませんでした。「魔法使いの旅」と比べても格段に難易度が上がっていて、いきなりMCU作品並みのオタク濃度になっています。なので周りの盛り上がりについていけなかったのは個人的に辛いところだったりします笑

しかし、ここまで書いておいて意外かもしれませんが、僕は前作「魔法使いの旅」より本作「黒い魔法使いの誕生」の方が楽しめました。基本「敵側のターン」のお話なので、主人公のスキャマンダーやティナはグリンデルバルドに振り回されっぱなしなわけですが、僕にはこのなす術のない絶望感がツボでした。さらにクリーデンスやリタ、ナギニなど、様々なキャラクターの思惑が複雑に交錯し、予想外の方向にお話が転がっていくので、細かい設定などを抜きにしてもかなりハラハラしながら見ることができました。そして、ラストは丸投げ笑 このモヤモヤした気持ちも、この先どうなるんだろうという興奮も、全部続編まで宙吊りです。「スター・ウォーズ」旧三部作の第二作「帝国の逆襲」を思い出す構成ですね。シリーズものはやはり「帝国の逆襲」パターンからは逃げられないんでしょうか。「ジュラシック・ワールド炎の王国」や「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」もこの類でした。

最後に、グリンデルバルドについて。分断を叫ぶカリスマの姿には既視感を覚えました。90年前も今も人々の苦しみは変わりません。今回は第一次大戦後のパリが舞台ですが、その30年後にこの地はヒトラー率いるナチスの軍隊によって占領されます。そして、2017年には移民反対を掲げるルペンが大統領選で存在感を示しましたし、アメリカでは「壁」の建設政策や差別発言で混乱をもたらすトランプが最高権力者の地位にいます。この映画のうまいところは、グランダルバルドをただのウソつきとしては描いていないところです。ジェイコブとクイニーの悲恋を見せられているので、たしかにマグルも独立すべきかもなと思ってしまいそうになります。本当は、魔法使いとそうでない人で区切ってしまうルールが問題で、やはり分断を煽るグリンデルバルドは悪なのですが、心情的には納得しそうになるのが恐ろしいところ。90年前のお話を描くファンタジーでありながら、裏に隠されたテーマは非常に現代的なんですよね。第三作ではこの問題がどのように描かれるのか、そして、現実の世界はかつての失敗の歴史をなぞっていくのだろうか、いろんな意味で気になる作品です。

「グリンチ」感想:みんなの輪の中に入るということ

こんにちは。じゅぺです。

今回はクリスマス目前ということで「グリンチ」について。

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グリンチ」クリスマスが大嫌いなひねくれ者のグリンチとお母さんの幸せを願うシンディ・ルーを描くアニメーション映画です。製作は「怪盗グルー」シリーズでおなじみのイルミネーションスタジオ。賑やかなフーの村の景観で縦横無尽に繰り広げられるドタバタアクションやギミックだらけのグリンチのお家がアトラクションみたいで楽しい!優しいクリスマス映画に仕上がっています。

「ペット」や「SING」に比べると、ちょっと対象年齢は低めかもしれません。ナレーションも付いていて、親が寝る前に読み聞かせしてくれる絵本のようです。映像面でも、観客の目線とスクリーン上の地平線をつなぐ大胆なカメラワークや、臨場感たっぷりの長回し、縦横や奥行きを生かした雪上の動きで、かなり楽しい仕掛けが施されています。オープニングの長回しの演出で十分満足できます。お祭り感満載のフーの村の装飾もすばらしい。かなり細かいところまで作りこまれています。僕的には、引きのカットで見せるプッチンプリンみたいな見た目の村の全景が可愛らしくてお気に入りです。

尺も86分と短く、かなり幼い子どもでも見られるように配慮した内容になっています。一方で「交尾」というワードが飛び出したり、グリンチのやる嫌がらせがそれなりにエグかったりと、イルミネーション・スタジオらしいデフォルメの効いた毒は相変わらずです。一方で、起承転結の「結」にあたる部分がかなりアッサリしていて、近年稀に見る予定調和なストーリーになってしまっています。いくら子ども向けアニメとはいえ、製作上のトラブルを心配してしまう(リブート版「ファンタスティック・フォー」みたいな)抜け落ちっぷりです。これは大きく評価の分かれるところでしょう。正直、僕もここはキツイなと思いました。イルミネーション・スタジオが高水準の作品を立て続けに公開してきただけに、ここにきて少し息切れを起こしてしまったかなとも思いました。

そうは言っても、僕は結構この映画が好きです。手垢のついたメッセージですが、人の幸せを自分のことのように喜べるって素敵だよね!というストレートな教えは、クリスマスの祝祭ムードの中で、わりとすんなり心に染み込んできました。グリンチみたいな人って結構たくさんいるんですよ。幸せな他人を見て不満のことばをまき散らしたり、不幸な境遇にいる自分をうじうじと慰めたり。やり場のない怒りや憤りは誰でも抱えるものだと思いますが、その感情が自信のなさや孤独感からくるものだったりすると、他者に対する攻撃や嫌がらせとなって行動に現れてしまいます。ネットだとそれがカジュアルにできてしまうから厄介です。グリンチが街の人に意地悪しておばあさんの杖を奪ったり、子供の雪だるま壊したりしていましたけど、要するにあれはツイッターで言うところのクソリプですよね。

話は逸れますが、最近「炎上弁護士」の唐澤貴洋さんのインタビューを読みました。彼を対象に過激な誹謗中傷行為に走る人たちは、実際に会ってみるとコミュケーション能力の低い、孤独な少年が多かったそうです。彼らはネット上の「仲間たち」の共通のコミュケーションの「ネタ」として、唐澤さんを攻撃しているのではないか、と本人は分析しています。本当はひとりぼっちでも、みんなで誰かを攻撃したり、「敵」に認定してしまえば、たくさん仲間がいるかのように錯覚します。それが結構クセになってしまうようで、ある種の中毒状態に陥ってしまうらしいのです。他人を攻撃して心を満たすって、すごく寂しいことだと思います。彼ら(もちろん僕自身がその中に組み込まれてしまう可能性もあります)はどうやってそこから抜け出せるのでしょうか。世の中にはグリンチのような人がたくさんいます。この映画を見ている子どもたちだって、50を過ぎて嫌がらせに勤しむ偏屈おじさんになってしまう可能性があるわけです。

そんな問いに対して「グリンチ」は非常にやさしい答えを示してくれます。それは、誰かが幸せそうにしていたら、それを一緒に喜んであげることの大切さです。シンディ・ルーは彼女の友人たちにこう言います。

「あなたの大切なものは、私にとっても大切なもの」

これってすごく素敵な考えだと思うんですよね。誰もが彼女のように純真で素直な心を持つことは難しいだろうし、これが理想主義であるという指摘も事実だと思います。なかなかそういう心の余裕は持てません。でも、フーの村の人びとは嫉妬ややっかみの感情からはかけ離れたところにいて、お互いが相手を思いやり、幸せに暮らしていけることを祈っています。グリンチは、過去の孤独な体験から、自分はその思いやりの輪の中に入っていないのだと信じ込んでいました。しかし、実際はそんなことなかったんですよね。実はオープニングから彼は村中から心配されていました。それを彼は持ち前のひねくれっぷりで跳ね返しただけだったのです。グリンチに足りなかったのは、他人の優しさを受け入れ、輪の中に踏み出す勇気でした。つまり、誰だって孤独から抜け出せるチャンスはあるし、どこかに健全な居場所はあるのではないかということです。また、グリンチの改心という奇跡が、本来彼にとって呪いの場であったはずのクリスマスで起きるのも、やさしさにあふれていて素敵ですね。

醜い感情や罵詈雑言が可視化されやすいこの世の中だからこそ、世界中の子どもたちがグリンチのようにフーの村の人びとの愛と優しさに触れることは、とっても大事だと思います。素直すぎて逆に嘘くさいという感想もわからなくはないですが、僕はクリスマスにぴったりの作品だと思いました。